第三十一話
目を覚ましてから、数日が過ぎた。
私は、少しずつ身体を動かせるようになっていた。
最初は指先を動かすだけでも疲れてしまったけれど、今ではベッドの上で身体を起こし、短い時間なら椅子に座ることもできる。
食事も、以前より食べられるようになった。
医師からは、焦らずゆっくり回復していきましょうと言われている。
だから私は、きっと大丈夫なのだと思っていた。
魔力回復不全症。
その病気については、まだわからないことが多いらしい。
魔法を使わずに安静にしていれば、少なくとも今以上に悪くなることはない。
そう考えていた。
けれど……。
「……あれ?」
朝、目を覚ました私は、自分の手を見つめた。
指先が、妙に冷たい。
室内は十分に暖かいはずなのに、手のひらだけが冷え切っているようだった。
私は、両手をこすり合わせた。
「冷え性……なのかな?」
それでも、冷たさは消えなかった。
昨夜は、いつもより少し長く起きていたからだろうか。
そう思い、私は布団を肩まで引き上げた。
大したことではない。
きっと、身体が弱っているせいだ。
そう、自分に言い聞かせた。
「エリス、入ってもいいか?」
昼過ぎ、レオンがやってきた。
「どうぞ」
返事をすると、彼はいつものように明るい顔で扉を開けた。
「今日は調子どう?」
「昨日よりはいいと思うわ。少しずつだけど、食事も食べられるようになってきたし」
「そっか。よかった」
レオンは、ほっとしたように笑った。
彼が持ってきてくれたのは、一冊の本だった。
「これ、前に君が読みたいって言っていた本。覚えてる?」
「もちろん。王立図書館にも所蔵されているけれど、貸し出し中だったのよね」
「そうそう。ようやく借りられたんだ」
私は、差し出された本を受け取ろうとした。
けれど。
「あ……」
指先に力が入らなかった。
本の背表紙に触れた瞬間、手が滑る。
落ちかけた本を、レオンが慌てて支えた。
「エリス?」
「ご、ごめんなさい。ちょっと手が滑ってしまって」
私は笑ってごまかした。
たった一冊の本だ。
こんなものを持てないはずがない。
そう思って、もう一度手を伸ばした。
今度は、レオンが本を開き、私の膝の上に置いてくれた。
「無理しなくていいよ。今日は僕がページをめくる係ね」
「……それじゃあ、レオンが読めないじゃない」
「君が読んでくれるなら、僕は横にいるだけでも楽しいよ」
冗談めかした口調だった。
私は小さく笑った。
けれど、胸の奥には、妙な引っかかりが残っていた。
手に力が入らなかった。
それだけではない。
ほんの一瞬だったが、本に触れたとき身体の奥から、何かが抜けていくような感覚があったのだ。
気のせいだろうか。
私は膝の上の本に目を落とした。
文字は、いつもと変わらずそこにある。
なのに、なぜか集中できなかった。
翌日。
私は、朝食を半分ほど残してしまった。
食欲がないわけではない。
食べようと思えば食べられる。
けれど、食べ物を口に運ぶだけで、ひどく疲れてしまうのだ。
食事を終えるころには、息が少し上がっていた。
「……おかしいわね」
呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。
昨日より、身体が重い。
起き上がるのも、腕を持ち上げるのも、少しずつ難しくなっている。
目を覚ました直後よりは、ずっと回復しているはずだった。
なのに、どうして。
私はベッドの上で、自分の手を見つめた。
魔力を使っているわけではない。
魔法の練習など、一度もしていない。
それなのに、身体の奥にある何かが、少しずつ減っている気がした。
魔力。
ふと、その言葉が頭をよぎった。
けれど、そんなはずはない。
魔力を使わなければ、消費することもない。
医師だって、そう説明していた。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
考えすぎているだけ。
きっと、そうだ。
「エリス、顔色が悪いんじゃないか?」
その日の午後、見舞いに来たレオンは、私を見るなりそう言った。
「そうかしら?」
「うん。昨日よりも青白いっていうか……」
レオンは私の顔を覗き込んだ。
私は慌てて笑った。
「少し疲れているだけよ。朝食もあまり食べられなかったから。もしかしたら日光にあんまり当たってないからかも」
「先生を呼ぼうか?」
「大丈夫。そんなに心配しなくても……」
言いかけたところで、私は息を詰まらせた。
胸の奥が、急に冷たくなったのだ。
痛みではない。
身体の中心から、冷たい風が吹き抜けるような感覚。
その直後、指先から力が抜けた。
「……っ」
視界が揺れた。
私は慌ててベッドの端をつかもうとしたけれど、腕が思うように動かない。
「エリス!」
レオンが、私の身体を支えた。
「どうした?どこか痛いのか?」
「わから、ない……」
声が震えた。
身体が重い。
息を吸っているのに、十分に空気が入ってこない。
それなのに、苦しいというより、何かが抜け落ちていくようだった。
身体の奥にあった温かなものが、指先から流れ出していく。
私は、思わず自分の手を見た。
何も見えない。
けれど、確かに感じる。
魔力が、私の中から……漏れ出している。
「……魔力?」
呟いた瞬間、全身から力が抜けた。
レオンが私を抱き留める。
「エリス!しっかりしろ!」
遠くで、彼の声が聞こえた。
私は返事をしようとした。
でも、唇がうまく動かなかった。
どうして。
魔法なんて使っていないのに。
どうして、魔力が減っていくの。
疑問だけが、頭の中を巡った。
そして、私は再び意識を手放した。
次に目を覚ましたとき、ベッドの周りには医師たちがいた。
レオンも、すぐそばに立っていた。
彼の顔には、隠しきれない不安が浮かんでいる。
「……私、また倒れたの?」
かすれた声で尋ねると、主治医が頷いた。
「はい。意識を失われました。現在は落ち着いていますが、念のため、しばらく安静にしていただきます」
「でも……私は魔法を使っていません」
「承知しています」
医師の表情は険しかった。
「だからこそ、詳しく調べる必要があるのです」
医師は魔力測定用の魔道具を取り出した。
以前と同じ、淡い光を放つ水晶だった。
私は手をかざすように言われ、ゆっくりと指先を近づけた。
水晶が光る。
しかし、その光は以前よりもずっと弱かった。
医師は数値を確認すると、眉を寄せた。
「……やはり」
「何かわかったのか!?」
レオンが尋ねた。
医師はすぐには答えなかった。
もう一度、水晶を使って測定する。
さらに別の魔道具を用い、私の身体に残っている魔力の状態を調べた。
その間、誰も口を開かなかった。
やがて、医師は静かに息を吐いた。
「魔力が減少しています」
「……減少?」
私は聞き返した。
「はい。前回の検査と比べて、体内に蓄えられている魔力の量が明らかに低下しています」
「でも、私は何もしていません。魔法も、一度も……」
「そのとおりです」
医師は、私の目を見た。
「あなたの魔力は、魔法を使用していないにもかかわらず減っています」
頭の中が、真っ白になった。
「これは……魔力回復不全症の症状が、私たちの想定よりも進んでいる可能性があります」
医師は慎重に続けた。
「本来、魔力は身体の中で維持され、消費した分が少しずつ回復していきます。しかし、あなたの場合は回復が極端に遅いだけでなく、魔力を体内に留めておく機能そのものが弱まっているのかもしれません」
「留めておく……?」
「はい。例えるなら、魔力を蓄える器に、目に見えない小さなひびが入っているような状態です。魔法を使わなくても、そこから少しずつ魔力が失われている可能性があります」
器に、ひび。
その言葉が、頭から離れなかった。
私は魔力を使っていない。
十分に睡眠もとっているし、食事もできるだけ取っていた。
それなのに私の中にある魔力は、勝手に減っていく。
「……止める方法は、ないのですか?」
震えるレオンの声が、低く響いた。
医師は、苦しそうに眉を寄せた。
「現時点では、確実な方法は見つかっていません。魔力の消費を抑えることはできますが、今回のように自然に魔力が減少するのであれば、安静にしているだけで進行を止められるとは限らないのです」
「そんな……」
「さらに、魔力が一定量を下回れば、身体を維持することにも影響が出るおそれがあります。今後は、魔力量だけでなく、体温や脈拍、意識状態なども慎重に観察する必要があります」
私は、布団を握りしめた。
魔力が少ない。
回復が遅い。
それだけでも、十分につらいことだった。
けれど、今は違う。
何もしていなくても、魔力が減っていく。
休んでいても。
眠っていても。
時間が経つほど、私の中から何かが失われていく。
「……私、どうなってしまうのでしょう」
声が、震えた。
医師は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、何よりも怖かった。
医師たちが部屋を出たあとも、レオンは私のそばにいた。
けれど、先ほどまでのように、明るく話しかけてはくれなかった。
私の手を握り、ただ静かに座っている。
「……レオン」
「うん」
「私、ちゃんと休んでいたのよ」
「うん。わかってる」
「魔法も使っていないし、無理もしていないわ」
「うん」
「それなのに……」
言葉が続かなかった。
涙が、視界を滲ませた。
自分でも、どうしてこんなに怖いのかわからなかった。
魔法が使えなくなるかもしれない。
それは、医師から聞いたときにも覚悟していた。
けれど、今はもっと恐ろしい。
何もしなくても、身体が弱っていく。
昨日できたことが、今日はできなくなるかもしれない。
明日は、もっと。
そう考えるだけで、息が苦しくなった。
「……私、また眠ってしまうのかな」
ようやく口にした言葉に、レオンの手が強く私の手を握った。
「エリス」
「また目を覚まさなくなったら……。今度は、一年どころじゃなくて……」
「エリス!」
彼が、私の名前を呼んだ。
私は、びくりと肩を震わせた。
レオンは、すぐに表情を和らげた。
「ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだ」
彼は、私の手を包み直した。
「怖いのはわかる。僕だって、怖いよ」
その言葉に、私は顔を上げた。
「君がまた倒れたとき、目の前でどんどん顔色が悪くなっていくのを見て……何もできなかった。君の名前を呼ぶことしかできなかった」
レオンは、唇を噛んだ。
「もう一度、君が目を覚まさなかったらどうしようって思った」
「……レオン」
「でも、だからこそ、僕は君のそばにいる」
彼は、私の目をまっすぐに見つめた。
「原因も、治す方法も、まだわからない。だけど、わからないからって、何もしないわけにはいかないだろう?」
彼の手は、まだ少し震えていた。
それでも、私を握る力は優しかった。
「先生たちにも、できることを全部調べてもらおう。僕も協力する。君が一人で抱え込む必要はないんだ」
私は、何度も頷いた。
それしかできなかった。
大丈夫だとは、まだ思えない。
明日には、また魔力が減っているかもしれない。
明後日には、もっと身体が動かなくなるかもしれない。
それでも、レオンがここにいてくれる。
その事実だけは、変わらなかった。
その夜。
私は、眠れずにいた。
レオンは、医師に勧められて一度帰宅した。
明日、また来ると約束して。
部屋には、私一人しかいない。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
私は、そっと手を持ち上げた。
何かを確かめるように、自分の手のひらを見つめる。
魔力を使うつもりはない。
ただ、自分の中に何が残っているのか、少しだけ知りたかった。
目を閉じ、意識を身体の奥へ向ける。
かすかな温もりがあった。
以前なら、もっとはっきりと感じられたはずの魔力。
今は、遠くにある小さな灯火のようだった。
私は、それに触れようとした。
その瞬間。
ふっと。
灯火が揺れた。
「……え?」
身体の奥から、何かが抜けていく。
ほんのわずか。
けれど、確かに。
魔力が、漏れ出していた。
私は慌てて意識を引き戻した。
それでも、止まらない。
小さな穴から水が流れ出すように。
私の中に残された魔力が、少しずつ失われていく。
「……いや」
思わず、声が漏れた。
どうすればいいの。
魔法を使わなくても減る。
休んでいても減る。
自分の身体なのに、自分では止められない。
私は、胸元を握りしめた。
怖い……。
あのとき、大規模な治癒魔法を使ったことは後悔していない。
救えた命がある。
助かった人たちがいる。
それは、私にとって大切なことだった。
でも私は、まだ生きていたい。
レオンと、もっと話がしたい。
新しい本を読んで、彼と感想を言い合いたい。
いつか、彼の隣で笑える日々を取り戻したい。
だから。
「……お願い」
私は、誰にともなく呟いた。
「これ以上、減らないで……」
けれど、返事はなかった。
窓の外で、風が木々を揺らしている。
私は、目を閉じた。
身体は、少しずつ冷えていく。
指先に力が入らない。
息をするだけで、疲れてしまう。
それでも、私は眠るのが怖かった。
目を閉じている間にも、魔力が失われていく気がしたから。
やがて、扉の向こうから足音が聞こえた。
夜間の見回りに来た看護師だろう。
私は、声を出そうとした。
けれど。
「……っ」
喉が、うまく動かなかった。
視界がぼやける。
身体の奥に残っていた小さな灯火が、また揺れた。
そして私は、理解した。
これは、ただ魔力の回復が遅いというだけの病気ではない。
何もしなくても、私の中から魔力は失われ続ける。
そして、その魔力が減るほど、私は弱っていく。
いつかこの灯火が、本当に消えてしまったら。
私は、どうなってしまうのだろう。
答えは、まだわからない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
明日も、明後日も。
私は、この身体で生きていかなければならない。
失われていくものに怯えながら。
それでも、失いたくないものを守るために。
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