第三十話
「……エリス」
誰かが、私の名前を呼んでいる。
とても優しい声だった。
何度も、何度も。
まるで、私がどこか遠くへ行ってしまわないように、必死に引き留めているかのように。
「……エリス。今日も来たよ」
その声が、ひどく懐かしかった。
私は目を開けようとした。
けれど、まぶたが重い。
身体も、指先ひとつ動かせない。
それでもこの声の主に、伝えなければいけないことがある気がした。
私は、もう一度だけ力を込めた。
ゆっくりと、ほんの少しずつ。
そして。
「……ん」
かすかな声が、喉から漏れた。
「……え?」
すぐそばで、椅子が大きく動く音がした。
「エリス!?」
聞き覚えのある声。
今度は、はっきりと私の名前を呼んだ。
私は重たいまぶたを、どうにか持ち上げた。
ぼんやりとした視界に、見慣れない天井が映る。
白い壁。
薄いカーテン。
薬草のような匂い。
ここは、どこだろう。
考えようとしても、頭がうまく働かない。
そんな私の視界に、一人の男性が入り込んできた。
少し伸びた髪。
目の下には、濃い隈。
いつも明るく笑っていた顔は、驚きと戸惑いでいっぱいだった。
「……レオ、ン?」
声が、かすれた。
それでも、彼には届いたらしい。
「エリス……!」
レオンは、私の手を両手で包み込んだ。
その手が、震えていた。
「よかった……。本当に、よかった……!」
彼はそう言って、私の手を額に押し当てた。
何かを堪えるように、深く息を吐く。
私は、そんな彼を見つめた。
どうして、そんな顔をしているのだろう。
まるで、一生分の悲しみを味わった人みたいに。
「……私、どうして……」
「喋らなくていい。今は無理をしないで」
レオンは、すぐに呼び鈴へ手を伸ばした。
「先生を呼ぶね。安心して、俺はどこにも行かないから。もう少しだけ待っていて」
そう言って立ち上がろうとした彼の手を、私は弱々しく握った。
離れないで。
そう伝えたかった。
すると、レオンは動きを止めた。
私の手を見つめ、それから困ったように笑った。
「……大丈夫。どこにも行かないよ」
彼は再び椅子に腰を下ろした。
私の手を握ったまま、空いている手で呼び鈴を鳴らす。
その姿を見て、私はようやく安心した。
そして、また眠気に襲われた。
けれど今度は、怖くなかった。
手を握ってくれている人がいる。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
医師が駆けつけたのは、それから間もなくのことだった。
簡単な問診と診察を受け、私は自分が一年もの間、眠り続けていたのだと知った。
「……一年?」
思わず聞き返した。
医師は静かに頷いた。
「はい。魔力を極限まで使い果たしたことによる、深い昏睡状態でした。生命を維持するための処置を続けてきましたが、いつ目覚めるかは、誰にもわからなかったのです」
一年。
そんなに長い時間が経っていたなんて。
私には、ほんの少し前の出来事のように思えた。
街を襲った魔物。
傷ついた人たち。
助けたいと願ったこと。
そして、眩しいほどの光に包まれた瞬間。
そこから先の記憶は、ほとんどない。
「……皆さんは?」
私は、かすれた声で尋ねた。
「魔物は、どうなりましたか。街の人たちは……」
「安心してください。王都は救われました。あなたの魔法によって、多くの負傷者が救命されましたし、その後、各地から駆けつけた援軍と騎士団が魔物を撃退しました」
「……よかった」
心の底から、そう思った。
あのときの選択が間違っていなかったのなら。
私が眠り続けた一年にも、意味があったのなら。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
けれど医師の表情は、晴れなかった。
「ただし、これから詳しい検査をさせていただきます」
「検査……ですか?」
「目を覚まされたばかりですから、身体の状態を確認しなければなりません。特に、魔力については慎重に調べる必要があります」
その言葉に、レオンがわずかに顔を強張らせた。
私は彼を見た。
彼は何かを知っているような顔をしていた。
けれど、何も言わなかった。
検査は、数日にわたって行われた。
身体を動かすことも、長く起きていることも、今の私には難しかった。
食事も少しずつ。
歩く練習も、医師の許可が出てから。
そして、魔力の検査だけは、何度も繰り返された。
魔力を測定する魔道具に手をかざす。
医師が数値を確認する。
別の魔道具で、魔力の回復具合を調べる。
それを、日を置いて繰り返す。
最初は、身体が弱っているからだと思っていた。
一年間も眠っていたのだから、魔力が戻るまでに時間がかかるのは当然だろう。
けれど、医師たちの表情は、検査を重ねるたびに厳しくなっていった。
そして、検査を始めてから数日後。
私は、医師から話があると告げられた。
部屋には、主治医のほかに魔力治療を専門とする医師もいた。
レオンも、私のそばに座っている。
「……エリス様。これからお伝えすることは、少々厳しい内容になるかもしれません」
主治医は、慎重に言葉を選んでいた。
「ですが、今後の生活に関わる重要なことです。どうか、最後まで聞いてください」
「……はい」
私は膝の上で手を握りしめた。
「今回の昏睡状態は、魔力を過剰に消費したことが直接の原因です。しかし、検査の結果、単なる魔力の使いすぎでは説明できない異常が見つかりました」
「異常……?」
「あなたは以前から、魔力の回復に時間がかかる体質だったのではありませんか?」
私は、息を呑んだ。
確かに昔から、魔法を使ったあとはひどく疲れた。
少し無理をすると、立っていることさえ難しくなった。
何度か魔法を続けて使ったときには、そのまま倒れてしまったこともある。
そのたびに、数日間は寝込んでいた。
周囲からは、魔力が少ないのだと言われていた。
だから私は、自分には魔法の才能がないのだと思っていた。
「……はい。魔法を使うと、ほかの人よりも疲れやすくて。何度も使うと、倒れてしまうこともありました」
「やはり、そうでしたか」
医師は、小さく息を吐いた。
「あなたの場合、魔力を消費したあと、回復する速度が極端に遅いのです。さらに、これは単に回復が遅いというだけではありません」
彼は、検査結果を記した書類に目を落とした。
「魔力を蓄えておける量そのものが、少しずつ減少していると考えられます」
「……え?」
意味が、すぐには理解できなかった。
「魔力は、使えば減ります。しかし、通常であれば時間の経過とともに回復し、ある程度の量まで蓄えられるようになります。ところが、あなたの場合は回復に非常に長い時間がかかるうえ、回復できる量の上限そのものが、徐々に低下している可能性があるのです」
「上限が……?」
「はい。以前と同じように休養を取っても、以前と同じ量の魔力が戻るとは限りません。魔力を使いすぎれば、回復するまでに何日も、場合によってはそれ以上の時間が必要になります」
医師は、一度言葉を切った。
「そして、回復を待たずに魔法を使い続ければ、再び倒れる危険があります。今後、魔力を消費するたびに、あなたが使える魔力の総量がさらに減っていく可能性も否定できません」
私は、何も言えなかった。
魔法を使えば、疲れる。
休めば、また使えるようになる。
ずっと、そう思っていた。
けれど、違ったのだ。
私の身体は、魔力を使うたびに、少しずつ何かを失っていた。
「……治るのでしょうか」
ようやく、それだけを尋ねた。
医師はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
「残念ながら現時点では、失われた魔力の回復能力を元に戻す方法は見つかっていません。今後は魔力の消費を極力抑え、定期的に検査を受けていただく必要があります」
つまり私は、これから魔法を使えなくなるかもしれない。
それどころか、今よりも少ない魔力しか持てなくなるかもしれない。
「……病気、なのですか?」
「はい。魔力の回復機能に異常が生じる、先天的な疾患の一種と考えられます。医学的には、魔力回復不全症と呼ばれる症例に近いものです」
魔力回復不全症。
初めて聞く名前だった。
「ただ、あなたの場合は、今回の大規模魔法によって魔力を極限まで消費したため、症状が一気に表面化した可能性があります。これまでも身体は限界を訴えていたのでしょう。それでも、あなたは魔法を使い続けてしまった」
医師の言葉が、胸に刺さった。
私は、あのときのことを思い出していた。
目の前で傷ついている人たち。
助けを求める声。
どうにかして、みんなを救いたいと願った。
だから、魔法を使った。
後悔はしていない。
けれどもし、もう一度同じことが起きたら。
私は、同じように魔法を使えるのだろうか。
「……今後、魔法を使うことはできないのでしょうか」
医師は首を横に振った。
「一切使ってはいけない、とまでは言いません。ただし、今はごくわずかな魔法であっても、身体に大きな負担がかかる可能性があります。少なくとも、十分に回復するまでは魔法の使用を避けてください。その後も、使用できる魔力量を慎重に見極める必要があります」
私は、自分の手を見つめた。
この手で、たくさんの人を救った。
でも、これからは誰かを助けたいと思っても、簡単には魔法を使えない。
その現実が、ゆっくりと胸に沈んでいった。
医師たちが部屋を出たあと、しばらくの間、私は何も話せなかった。
レオンも、何も言わなかった。
ただ、隣にいてくれた。
「……ごめんなさい」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「エリス?」
「私……これから、どうなるんでしょう」
声が震えた。
「今までだって、普通に魔法を使えたわけじゃありません。でも、少しずつ練習すれば、いつかは……って、どこかで思っていたんです」
魔法が使えないことは、ずっと私の中にあった悩みだった。
みんなが当たり前に使える魔法を、私は使えない。
だから、人前で魔法を使うことを避けてきた。
目立たないように。
期待されないように。
できない自分を、誰にも知られないように。
それでも、心のどこかでは願っていたのだ。
いつか、普通に魔法を使えるようになれたら、と。
「でも、これからは……今よりも、使えなくなるかもしれないのね」
レオンは、私の手を握った。
「……そうだね」
彼は、安易に否定しなかった。
大丈夫だと、簡単に慰めることもしなかった。
「怖いよね」
その一言に、私は顔を上げた。
「できることが減っていくかもしれないって言われたんだ。怖くないはずがない」
「……うん」
「でも、エリス」
レオンは、私の目をまっすぐに見つめた。
「君が魔法を使えなくなったとしても、君が君でなくなるわけじゃない」
私は、息を止めた。
「僕は、君が強い魔法を使えるから好きになったんじゃないよ」
彼は、少しだけ笑った。
「図書館で本を読んでいるときの君も、面白い本を見つけて夢中になっている君も、僕の話を聞きながら、たまに何も言わずに考え込んでいる君も。全部、好きなんだ」
「……レオン」
「だから、魔法のことだけで、自分の価値を決めないでほしい」
胸の奥が、熱くなった。
「僕は、君が目を覚ますのを一年間待った」
彼の声が、わずかに掠れた。
「毎日、今日こそはって思いながら、ここに来た。何度も、もう目を覚まさないんじゃないかって考えた。それでも、君に会いたかった」
レオンは、握った私の手にそっと額を寄せた。
「だから……目を覚ましてくれただけで、僕は本当に嬉しいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、涙がこぼれた。
一年。
私の知らないところで、彼はずっと待っていてくれた。
私が眠っている間も。
いつ目を覚ますかわからないまま。
それなのに、目を覚ました私に、魔法を失うかもしれないという現実が突きつけられた。
それでも、彼はここにいる。
「……私、このままで良いの?」
泣きながら、そんなことを尋ねた。
レオンは、一瞬きょとんとした。
それから、いつものように明るく笑った。
「もちろん。むしろ、そんなことは一回忘れて図書館へ行こう!エリスが眠っている間に、面白そうな本をたくさん見つけたんだ」
「……たくさん?」
「うん。君に感想を聞きたい本が、山ほどある」
私は、小さく笑った。
涙は、まだ止まらなかった。
でも、さっきまで胸の中を満たしていた恐怖が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
魔法がどうなるのかは、まだわからない。
これから先、どれほどの魔力が残されているのかも。
きっと、簡単なことではないのだろう。
それでも私には、まだ読みたい本がある。
レオンと話したいことも、たくさんある。
そして、もう一度。
彼と一緒に、図書館へ行きたい。
「……レオン」
「うん?」
「私、早く元気になるね」
レオンは、私の手を握り直した。
「うん。待ってるよ」
それから、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「ただし、無理はなし。魔法もなし。まずはちゃんと食べて、ちゃんと眠って、歩けるようになること」
「……それじゃあ、子どもみたいだわ」
「一年も眠っていたんだから、今くらいは僕に甘やかされてよ」
「……もう」
私は頬を膨らませた。
けれど、彼は楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見ていると、不思議と安心できた。
まだ、何も解決していない。
魔力回復不全症という病気。
少しずつ減っていくかもしれない魔力。
これから先、私がどこまで魔法を使えるのかもわからない。
それでも、目を覚ました私の隣には、レオンがいる。
今は、それだけでよかった。
私は、彼の手を握り返した。
もう二度と、目を覚ませないかもしれないと思われるほど、無茶はしない。
自分の身体を大切にする。
そしていつか、また彼と並んで本を読める日を、迎えたい。
そのために、今は一歩ずつゆっくりと、前へ進んでいこう。
そう、心に決めた。
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