第二十九話
王都を包むように、大きな光が広がっていく。
淡い光は私の身体から溢れ出し、地面を伝い、建物を越え、街の隅々へと広がっていった。
「……なにが、起きているんだ?」
誰かの声が聞こえた。
けれど、私には答えられなかった。
自分でも何が起きているのか、よく分からなかったから。
ただ目の前にいる人たちを助けたい。
傷ついた人を、苦しんでいる人を……大切な誰かを守るために、今も戦っている人たちを誰一人、失いたくない。
その気持ちだけは、はっきりしていた。
「……お願い」
私は両手を広げた。
「みんなを……助けて」
その瞬間。
身体の奥で渦巻いていた魔力が、一気に解き放たれた。
光が弾ける。
私を中心に、まばゆい輝きが王都全体へと広がっていった。
そしてその光に触れた人たちの身体に、変化が起き始めた。
「……あれ?」
広場で横たわっていた男性が、ゆっくりと自分の腕を持ち上げた。
先ほどまで深く裂けていた傷が、少しずつ塞がっている。
「傷が……」
別の場所では、足を負傷していた騎士が驚いたように自分の足を見つめていた。
「動く……動くぞ!」
折れていた骨の痛みが消えていく。
血が止まり、傷口が閉じていく。
身体を襲っていた痛みが、少しずつ和らいでいった。
「いったい、何が……?」
誰もが空を見上げた。
王都を包む光は、まだ消えていない。
むしろ、街の隅々にまで行き渡ろうとしていた。
「治癒魔法……なのか?」
「こんな規模の魔法、見たことがない!」
治癒魔法を扱う魔法兵でさえ、目の前の光景を信じられずにいた。
個人の傷を癒やす。
それが、通常の治癒魔法だ。
優れた使い手であれば、複数の人間を同時に治療することもできる。
けれど今、王都で起きていることは、そのどれとも違っていた。
離れた場所にいる人々まで、広場に運び込まれることさえできなかった人々まで、王都の各所で傷ついた人たちが次々と癒やされていく。
まるで、街そのものが大きな治癒魔法に包まれているかのようだった。
「まさか……」
一人の魔法兵が呆然と呟いた。
「王都全体を……一度に治療しているのか?」
誰も答えられなかった。
ただ、光だけが広がっていく。
そして、その中心にいる私は。
「……よかった」
小さく呟いた。
目の前の騎士が、ゆっくりと立ち上がる。
さっきまで苦しそうに顔を歪めていた人が、安心したように息を吐く。
その光景を見て、私は微笑んだ。
よかった。
助けられた。
もっと……もっと多くの人を。
そう思った。
けれど。
「……あれ?」
身体に、力が入らなかった。
最初は、ほんの少しの違和感だった。
足元がふらつく。
指先が冷たい。
視界の端が、ゆっくりと暗くなっていく。
「……っ」
私は唇を噛んだ。
まだ……まだ終わっていない。
光は王都全体へ広がっている。
その先には、北側の城壁がある。
そこには今も魔物と戦っているレオンがいる。
騎士たちがいる。
どうか、みんな無事でいて。
私は残された力を振り絞るように、両手を広げ続けた。
そのとき、身体の奥で何かが途切れた。
「……あ」
光が揺らいだ。
それまで溢れ続けていた魔力が、急速に失われていく。
身体の中が空っぽになっていくような感覚。
指先から力が抜ける。
膝が震え、立っていることさえできなくなっていた。
「エリス様!?」
誰かが叫んだ。
けれど、声が遠い。
私は顔を上げようとした。
もう一度、もう一度だけ、光を保たなければ。
まだ、助けられる人がいる。
まだ、戦っている人がいる。
そして……レオンがいる。
あの人が、無事に帰ってこられるように。
私は最後の力を振り絞った。
「……お願い」
声にならない声が、唇からこぼれる。
「みんなを……守って」
光が、ひときわ強く輝いた。
王都の街並みが、まばゆい光に包まれる。
その輝きは城壁を越え、北側の戦場にまで届いていた。
そして……私は、ゆっくりと目を閉じた。
王都北側。
「なんだ……これは……」
目の前に広がる光景に息を呑んだ。
突然、戦場を淡い光が包み込んだのだ。
それは目を開けていられないほど眩しいものではなかった。
むしろ、温かかった。
冷え切った身体に、柔らかな日差しが降り注ぐような、不思議な光だった。
「隊長! 身体が……!」
隣にいた騎士が、自分の腕を見つめている。
「傷が治っているぞ!」
「俺もだ!」
周囲から驚きの声が上がった。
負傷していた騎士たちの傷が、次々と癒やされていく。
先ほどまで立ち上がることさえできなかった者が、剣を握り直していた。
魔物の攻撃によって深手を負っていた者も、苦痛に顔を歪めていた者も、何事も無かったかのように身体を起こしている。
「いったい、何が起きているんだ!?」
「分かりません!」
騎士たちは戸惑っていた。
けれど、俺には分かっていた。
「……エリス」
王都の中心。
あの光の向こうに、彼女がいる。
彼女が何をしているのか、詳しいことは分からない。
けれど、間違いない。
あの光は、エリスのものだ。
「エリス……!」
胸の奥が、強く締め付けられた。
嬉しいはずだった。
傷ついた仲間たちが癒やされている。
今まで動けなかった騎士たちが、再び立ち上がっている。
これなら、戦況を立て直せるかもしれない。
それなのにどうしようもなく、嫌な予感がした。
あの光は、あまりにも大きすぎる。
エリス一人が使う魔法の規模ではない。
そんなことは、魔法に詳しくない自分にだって分かった。
「……無茶をするなって、言っただろ」
思わず呟く。
けれど、返事はない。
そのときだった。
「レオン様!」
前方から、騎士の一人が駆け寄ってきた。
「北東の街道から援軍です!」
「援軍だと?」
「はい!公爵家の騎士団が到着しました!それに、複数の貴族家の軍もこちらへ向かっています!」
「……本当か!?」
「間違いありません!」
騎士の顔には、疲労の色とともに、確かな希望が浮かんでいた。
一度、深く息を吐いた。
ついに待ち望んでいた援軍が到着したのだ。
公爵家の騎士団。
王都周辺を治める貴族たちの軍勢。
彼らが合流すれば、今までのように少ない人数で魔物の大群を食い止める必要はなくなる。
だが、まだ安心はできない。
「援軍の到着を各隊に伝えろ!合流するまで持ちこたえるんだ!」
「はっ!」
「負傷者は後方へ下がらせろ!動ける者は城壁の防衛に回せ!」
「了解しました!」
レオンは剣を握り直した。
「全員、聞け!」
声を張り上げる。
「援軍が来た!ここからが踏ん張りどころだ!」
疲れ切った騎士たちが、顔を上げた。
「俺たちは、ここまで王都を守り抜いてきた!」
レオンは目の前の魔物を睨みつけた。
「あと少しだ! 絶対に、この先へは進ませるな!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
騎士たちの雄叫びが響き渡る。
再び剣が構えられた。
先ほどまで押され続けていた防衛線が、少しずつ立て直されていく。
やがて、遠くから蹄の音が聞こえてきた。
大地を揺らすような足音。
旗を掲げた騎士団が、北東の街道から駆けつけてくる。
先頭を走る騎士たちが、魔物の側面へと突撃した。
「公爵家の騎士団だ!」
「援軍が来たぞ!」
歓声が上がる。
続いて、別の貴族家の軍勢も到着した。
弓兵が一斉に矢を放つ。
魔法兵たちが詠唱を始め、炎や氷の魔法が魔物の群れへと降り注いだ。
それまで王都を押し潰そうとしていた魔物の大群に、ようやく明確な乱れが生じ始めた。
「今だ! 押し返せ!」
レオンが叫ぶ。
「王都を守れ!」
「おおおおおっ!」
騎士たちが一斉に前へ出た。
魔物の群れを少しずつ押し戻していく。
城壁の上からも、攻撃が再開された。
援軍が加わったことで、防衛線に厚みが生まれたのだ。
そして長い戦いの末に、ついに魔物の進撃が止まった。
「報告!」
一人の騎士が駆け寄ってくる。
「北側の防衛線、維持できています!魔物の侵入は食い止めました!」
「……そうか」
レオンは息を吐いた。
「東側は?」
「援軍が合流し、こちらも防衛に成功しています! 城壁内に入り込んだ魔物も、順次討伐中です!」
「分かった。引き続き警戒を怠るな。まだ、すべて終わったわけじゃない」
「はっ!」
騎士が駆けていく。
俺は剣を下ろした。
手が震えていた。
疲労のせいだけではない。
張り詰めていた緊張が、ようやく緩んだのだ。
王都は守られた。
少なくとも、これ以上魔物を侵入させることは防げた。
援軍が間に合った。
仲間たちも、王都の人々も、まだ生きている。
その事実に、ようやく安堵することができた。
けれど。
「……エリス」
王都の中心を振り返ると、あの光はもう消えていた。
先ほどまで街全体を包み込んでいた、温かな輝き。
それが、跡形もなく消えている。
まるで最初から、何もなかったかのように……。
胸の奥が、冷たくなった。
「……まさか」
嫌な予感が、確信へと変わっていく。
「どちらへ?」
近くにいた騎士が、不安そうに声をかけた。
「どうかされましたか?」
「……悪い。少し、王都へ戻る」
「しかし、まだ周囲の確認が――」
「分かってる。だが、確かめなければならないことがある」
剣を鞘に収めて中心地に向かって走り出す。
身体中が痛かった。
足も重い。
それでも今は、そんなことを気にしている場合ではなかった。
彼女のもとへ一刻も早く……走り出した。
王都の中心にある広場は、静まり返っていた。
先ほどまで聞こえていた悲鳴も、治療を求める声も、今はほとんど聞こえない。
人々は、自分の身体に起きた変化に戸惑いながらも、周囲を見渡していた。
傷が治っている。
動かなかった身体が動く。
苦痛に耐えていた人たちの表情に、少しずつ安堵が戻ってきていた。
「いったい、誰が……」
「こんな魔法を使える人がいるなんて……」
誰もが口々に呟いている。
けれどその中心にいた少女のことを、気にかける者は少なかった。
いや、正確には気にかける余裕がなかったのだ。
広場の片隅。
淡い光が消えた場所に、私は倒れていた。
「エリス様!」
すぐそばにいた女性が、悲鳴のような声を上げた。
駆け寄り、私の肩を抱き起こす。
「エリス様!しっかりしてください!」
返事は出来なかった。
「誰か!誰か来てください!」
周囲にいた人々が、ようやく異変に気づいた。
「どうした!?」
「この方が……!」
女性は震える手で、私の頬に触れた。
「お願いです……目を開けてください……!」
けれど、私の瞼はぴくりとも動かなかった。
身体に力が入らない。
声も出ない。
意識は、深い闇の底へと沈んでいた。
「エリス!」
広場に駆け込んだ俺は、彼女の姿を見つけるなり走った。
地面に膝をつき、横たわる身体を抱き起こす。
「エリス!おい、エリス!」
返事はない。
いつもなら、少し困ったような顔をしながらも、彼の声に応えてくれるはずだった。
名前を呼べば、こちらを見る。
心配すれば、大丈夫だと微笑む。
無理をするなと言えば、少しだけ不満そうな顔をする。
そんな彼女が、今は目を閉じたまま動かない。
「……おい」
思わず声が震えた。
「冗談だろ……?」
頬に触れる。
いつもより冷たく感じた。
「エリス……?」
最愛の彼女の名前を呼ぶ。
けれど、返事はない。
「頼むから……目を開けてくれ」
肩を揺すりそうになり、慌てて手を止めた。
どこかを痛めているのかもしれない。
今は、無理に動かすべきではない。
頭では分かっていた。
けれど、どうすればいいのか分からなかった。
「誰か!治癒魔法を使える者を呼んでくれ!」
なりふり構わず叫んだ。
「すぐに医師もだ!頼む!」
「は、はい!」
近くにいた兵士が駆け出した。
レオンは彼女を抱きしめるように支えた。
「エリス……」
先ほどまで、あれほど大きな魔法を使っていた。
王都全体を包み込むほどの光。
傷ついた人々を、一度に癒やす力。
その中心にいたのが、彼女だった。
ならば、彼女自身はどうなったのだろう。
「……魔力を使い切ったのか?」
呟いた言葉が、ひどく重く響いた。
返事はない。
俺は彼女の手を握った。
「エリス。聞こえるか?」
いつもなら、こんなふうに手を握ると、彼女は少し照れたように視線を逸らした。
それでも手を振りほどくことはなかった。
むしろ、ほんの少しだけ握り返してくれることもあった。
その小さな反応が、俺は好きだった。
彼女と一緒にいると、無理に格好をつける必要がなかった。
何かを話さなくても、気まずくならなかった。
ただ隣にいるだけで、心が落ち着いた。
そんな時間が、これからもずっと続くのだと思っていた。
王都の図書館で本を読みながら過ごす時間。
何気ない話をして笑う時間。
彼女が少しずつ、自分に心を開いてくれる時間。
これから、もっと増やしていきたかった。
伝えたいことだって、まだたくさんある。
なのに。
「……エリス」
握った手に、力がこもる。
「俺、ちゃんと帰ってきたぞ」
彼女に約束した。
必ず帰ってくると。
そして、帰ってきた。
魔物の侵入を防ぎ、王都も守れた。
彼女が守ろうとした人たちも、たくさん救われた。
だからもう、いいだろう。
もう十分、頑張っただろう。
だから、頼む。
「……もう、頑張らなくていいから」
声が掠れた。
「お願いだから……目を覚ましてくれ」
そのとき、医師たちが駆けつけた。
「患者を診ます!少し離れてください!」
「彼女は……エリスは大丈夫なんですか!?」
「まずは状態を確認します。あなたは少し下がって!」
俺は唇を噛んだ。
離れたくなかった。
けれど、今は医師に任せるしかない。
彼女の手を、そっと離す。
医師たちはすぐに脈を確かめ、呼吸を確認し、魔力の状態を調べ始めた。
一人が眉をひそめた。
「これは……」
「どうした?」
別の医師が問いかける。
「魔力が……ほとんど残っていない」
「そんな……!」
「これほどの魔法を使ったのなら、当然かもしれません。ですが、ここまで使い切るなんて……」
医師の表情は険しかった。
「生命力そのものが失われているわけではありません。ただ、意識が戻らない」
「目を覚ますんですか?」
俺は縋り付くように尋ねた。
医師はすぐには答えなかった。
その沈黙が、何よりも恐ろしかった。
「今は、何とも言えません」
「……そんな」
「できる限りの治療をします。ですが、これほど大量の魔力を一度に消費した例は、私たちも知りません」
俺は拳を握りしめた。
「……お願いします」
頭を下げる。
「どうか、彼女を助けてください」
声が震えていた。
「お願いします……」
騎士として、何度も戦場に立ってきた。
命の危険にさらされたこともある。
目の前で仲間が傷つくこともあった。
それでも、これほど無力だと感じたことはなかった。
魔物と戦うことならできる。
剣を振るうことならできる。
仲間を守るために、前に立つことだってできる。
けれど、目の前で眠り続ける彼女をどうすれば助けられるのか。
俺には、分からなかった。
王都を襲った魔物の大群は、その日のうちに大部分が討伐された。
公爵家をはじめとする貴族たちの援軍が間に合ったこと。
騎士たちが最後まで防衛線を守り抜いたこと。
そして、王都全体を包んだ謎の治癒魔法によって、多くの負傷者が救われたこと。
それらが重なり、王都は壊滅を免れた。
建物の一部は破壊され、城壁にも大きな損傷が残った。
失われた命もあった。
けれど、あれほどの大群が押し寄せたことを考えれば、被害は奇跡的なほど少なかった。
人々は語った。
あの日、王都を包んだ光のことを。
傷が癒やされ、倒れていた人々が立ち上がったことを。
まるで天から救いが降り注いだかのようだった、と。
しかし、その奇跡の中心にいた少女の名を、知る者はほとんどいなかった。
王宮では、誰があれほどの魔法を使ったのか調査が始められた。
複数の魔法兵が、王都全体に及ぶ治癒魔法を目撃していた。
魔力の痕跡を調べようとする者もいた。
けれど、魔法が消えた後には、決定的な手がかりは残されていなかった。
ただ一つ、分かっていることがあった。
あの魔法は、王都にいた多くの人々を救った。
そして、その代償を払った者がいる。
王都の医療施設に運び込まれた、たった一人の少女。
彼女は、魔力を使い果たした状態で意識を失っていた。
治癒魔法を施しても、目を覚まさない。
身体の状態を整えても、意識は戻らない。
ただ、静かに眠り続けていた。
その少女のそばから、レオンは離れなかった。
数日が過ぎた。
王都は、少しずつ日常を取り戻し始めていた。
破壊された建物の修復が進み、城壁の補修も始まった。
街には、再び人々の声が戻ってきた。
怪我を負った騎士たちも、次第に回復していった。
あの日、王都全体を包んだ光によって救われた人々は、家族や友人と再会し、互いの無事を喜び合った。
けれど俺にとって、時間は止まったままだった。
「……エリス」
今日も、彼女の眠る部屋を訪れる。
窓から差し込む光が、白い寝台を照らしていた。
彼女は静かに横たわっている。
顔色は、以前よりもよくなっていた。
呼吸も落ち着いている。
医師によれば、身体の状態は少しずつ回復しているらしい。
それでも、目を覚まさない。
「今日は、街を見てきたよ」
寝台のそばに椅子を置き、腰を下ろした。
「まだ壊れた建物も残ってるけど、みんな頑張ってる。城壁の修復も進んでるし、商店も少しずつ店を開け始めた」
返事はない。
「騎士団も再編してる。援軍に来てくれた貴族家の人たちとも、これからの防衛について話し合ってるんだ」
いつもなら、エリスは静かに話を聞いてくれた。
興味がある話題なら、眼鏡の奥の瞳を輝かせながら質問してくる。
そうでなくても、最後まで聞いてくれる。
そしてときどき、小さく笑ってくれた。
今は、その笑顔を見ることができない。
「……早く起きてくれよ」
そう言いながらエリスの手を取った。
「聞いてほしいことが、たくさんあるんだ」
指先は、少し温かかった。
それだけで、胸が締め付けられる。
「……エリス」
彼女の名前を呼ぶ。
けれど、やはり返事はなかった。
一週間。
一か月。
季節が移り変わっていった。
王都を襲った魔物の被害は、少しずつ過去のものになっていった。
壊れた街並みは修復され、商店には活気が戻り、広場には再び人々が集まるようになった。
あの日のことは、やがて王都を救った奇跡として語られるようになった。
しかし、エリスは目を覚まさなかった。
医師たちは、できる限りの治療を続けた。
魔力の回復を促す薬も試した。
身体に負担をかけないよう、慎重に状態を管理した。
けれど、目を覚ます兆しはなかった。
「身体の状態は安定しています」
ある日、医師はレオンに告げた。
「命に別状はありません。ですが、意識が戻らない理由は、今もはっきりとは分かっていません」
「……いつか、目を覚ますんですよね?」
医師は、少しだけ視線を伏せた。
「可能性はあります。ですが、いつになるかは……」
「そうですか」
俺はそれ以上、何も聞かなかった。
聞いたところで、答えが変わるわけではない。
ただ、彼女が目を覚ます可能性がある。
それなら、俺には待つ以外の選択肢はなかった。
半年が過ぎた。
窓の外では、木々が葉を落とし、冬の気配が深まっていた。
いつものように彼女の部屋を訪れた。
騎士団の仕事は忙しかった。
王都を襲った魔物の件は、完全に終わったわけではない。
周辺の警備や、再発防止のための調査も続いていた。
それでも、いつも時間を作ってはここへ来た。
どんなに忙しくても。
どんなに疲れていても。
エリスに会いに来ることだけは、やめなかった。
「……寒くなってきたな」
窓を閉め、寝台のそばに座った。
「街では、もう冬支度が始まってるよ。去年、エリスが読んでいた本に、雪の降る街の話があっただろ?」
思い出す。
王立図書館で、彼女が夢中になって読んでいた本。
話しかけると、少し困ったように顔を上げた。
それでも、本の話になると、普段よりずっと多くの言葉を口にした。
その姿が、好きだった。
「……今度、一緒に読もうな」
返事はない。
彼女の手を握る。
「約束だ」
それは、彼女が目を覚ますと信じているからこそ、口にできる言葉だった。
一年が経った。
王都を襲った魔物の大群は、今では歴史に残る大事件として記録されていた。
公爵家をはじめとする貴族たちの軍勢が駆けつけ、騎士団と協力して王都への侵入を食い止めたこと。
そして、正体不明の大規模な治癒魔法によって、数え切れないほどの人々が救われたこと。
あの日の出来事を語る者は、今も多い。
けれど、救われた人々の中には、知らない者もいた。
自分たちを救った魔法のために、一人の少女が眠り続けていることを。
王都の医療施設。
窓辺に置かれた花瓶には、新しい花が飾られていた。
寝台には、変わらず一人の少女が横たわっている。
エリス・アシュフォード。
彼女は、あの日から一度も目を覚ましていなかった。
医師たちは、彼女の身体がゆっくりと回復していることを確認していた。
呼吸も安定している。
体温にも問題はない。
命に別状があるわけではない。
それでも目を覚まさない。
まるで、深い眠りの中に閉じ込められているかのように。
俺は、寝台のそばに座っていた。
以前よりも、少しだけ大人びた顔になった。
騎士としての責任も増えた。
あの日を境に、守るべきものの重さを、改めて知った。
けれど、彼女の前では今も変わらない。
「……エリス」
静かに名前を呼ぶ。
「今日で、一年だ」
窓の外には、穏やかな青空が広がっていた。
「君が倒れてから、一年が経ったよ」
彼女の手を取る。
「街は、すっかり元に戻った。あの広場も、前と同じように人が集まる場所になったんだ」
ゆっくりと語りかける。
「君が助けた人たちは、みんな元気になった。騎士団にも、あの日のことを忘れないって言ってる人がたくさんいる」
少しだけ笑う。
「……すごいことをしたんだぞ、エリスは」
返事はない。
「でもさ」
視線を落とす。
「俺は、そんなことより……君とまた話したい」
喉の奥が詰まった。
「本の話でも、どうでもいい話でもいい。君が好きな本を教えてくれて、俺がそれを読んで……また感想を聞かせてもらいたい」
彼女の手を、そっと握り直す。
「一緒に図書館へ行きたい」
静かな部屋に、彼の声だけが響く。
「また、隣で本を読みたいんだ」
目を閉じる。
あの日、彼女は言った。
レオンが戦っている間、自分にできることをしたい、と。
そして、彼女は本当に多くの人を救った。
誰よりも優しくて。
誰よりも無理をして。
自分のことなど後回しにして。
だからこそ。
「……もう十分だよ」
耳元で囁く。
「もう、誰かのために頑張らなくていい」
彼女の手を、両手で包み込む。
「今度は、君が幸せになる番だ」
声が震えた。
「だから……お願いだ」
彼女の顔を見つめた。
「目を覚ましてくれ」
静寂が訪れた。
窓から差し込む光が、彼女の頬を柔らかく照らしている。
長い睫毛も、閉じられた瞼も、穏やかな寝顔も、何一つ、変わらない。
彼女は、眠り続けていた。
あの日から一年が経った今も。
そして俺は、今日も彼女の手を握り続ける。
いつか、その手が握り返されることを信じて。
いつか、彼女が目を開けて、自分の名前を呼んでくれることを願って。
何度でも。
何度でも。
彼女の名前を呼び続けた。
「……おやすみ、エリス」
そっと彼女の手に額を寄せた。
「また明日、来るから」
返事はなかった。
それでも彼は、いつものように微笑んだ。
彼女が目を覚ます、その日まで。
何年かかっても、待ち続けるつもりだった。
静かな部屋の中で、彼女は今日も眠り続けていた。
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