第十八話
幸いにも命に関わるような傷を負った者はいなかった。
レオンは静かに剣を下ろした。
右肩にはまだ痛みが残っている。
先ほど魔物の攻撃を受けたときに身体を吹き飛ばされた。
決して軽い衝撃ではなかった。
それでも。
「……よかった」
レオンは小さく息を吐いた。
自分が無事だったことよりも、仲間が無事だったことのほうが嬉しかった。
隊長が近づいてくる。
「レオン様」
「どうした?」
「見事な指揮でした」
「俺だけの力じゃない」
レオンは倒れた魔物を見る。
「みんなが力を貸してくれたから倒せたんだ」
「しかし、あの魔物の弱点を見抜いたのはレオン様です」
「それでもだ」
レオンは首を振った。
「一人じゃ絶対に倒せなかった」
その言葉に、隊長は少しだけ笑った。
「……そうですね」
騎士たちが魔物の周囲へ集まっていく。
今回の討伐は、間違いなく大きな功績になる。
未知の巨大魔物。
通常の魔法がほとんど通じないほどの魔法耐性。
それを騎士と魔法使いが力を合わせて討伐した。
王都へ戻れば、大きな騒ぎになるだろう。
そして、レオンの頭にエリスの顔が浮かんだ。
「……エリス」
思わず口から名前が漏れる。
帰ったら、まず会いたい。
無事に戻ったことを伝えたい。
そして今回のことを、ゆっくり話したい。
そんなことを考えていたときだった。
「……レオン様」
魔法使いの一人が声を上げた。
「どうした?」
「少し、こちらへ」
レオンは魔物の前へ歩いていく。
魔法使いが指差したのは、魔物の額だった。
「この紋様です」
そこには、先ほどまで赤黒く輝いていた紋様が残っている。
だが。
「……消えていない?」
「はい」
魔物は死んでいる。
生命反応もない。
それなのに、額の紋様だけがゆっくりと明滅している。
「魔力が流れています」
「まだ生きているのか?」
「いえ。そうではありません」
魔法使いは首を横に振った。
「生命反応は完全に消えています。ただ……この魔力が、どこかへ流れているようです」
レオンは目を細めた。
「どこへ?」
魔法使いが魔力の流れを追う。
そして。
「……あちらです」
その指は森の奥を指していた。
奇しくも先ほど、赤黒い光が消えていった方向だった。
「……」
レオンは森の奥を見る。
木々の間からは何も見えない。
だが確かに何かがいる。
そんな感覚があった。
「さっきの咆哮も、あの方向だったな」
「はい」
隊長が答える。
「どうしますか?」
レオンは少し考えた。
すでに十分な戦果は得ている。
一度王都へ戻り、今回のことを報告するという選択肢もある。
しかし、ここで何も確認せずに戻るのは危険だ。
魔物がなぜこの森に集まっているのか。
なぜ、あの紋様を持っているのか。
そして、なぜ森の奥からさらに強大な気配がするのか。
「……もう少しだけ、進もう」
レオンは言った。
「ただし、無理はしない。危険だと判断したらすぐに戻る」
「承知しました」
隊長が頷く。
「全員、警戒して進むぞ!」
騎士たちが再び武器を構えた。
魔法使いたちも杖を握る。
俺たちは森の奥へ進んだ。
森の奥へ進むほど、空気が重くなっていった。
「……魔力が濃くなっている」
魔法使いが呟く。
木々にも変化があった。
幹の一部が黒く変色している。
地面には赤黒い線のようなものが走っていた。
まるで何かが地中を通っているようだった。
「これ……」
一人の魔法使いがしゃがみ込む。
「魔力が流れています」
「地面の中を?」
「はい」
レオンは周囲を見渡した。
先ほど倒した魔物。
そして、この森の奥へ続く赤黒い魔力。
すべてが繋がっている。
「……やっぱり、あいつらはここから来ていたのか」
そのときだった。
――ズン。
地面が揺れた。
「……!」
全員が足を止める。
――ズン。
また揺れる。
今度は、さっきよりも大きい。
「来るぞ!」
隊長が叫ぶ。
騎士たちが一斉に武器を構えた。
木々が大きく揺れる。
そして森の奥から、巨大な影が姿を現した。
「……っ」
誰もが息を呑んだ。
先ほどの魔物よりも大きい。
全身を黒い毛に覆われた巨大な獣。
二本の太い脚で身体を支え、長い両腕を地面近くまで垂らしている。
体高は五メートルを超えているだろう。
額にはやはり、赤黒い紋様があった。
「また、あの紋様……」
魔法使いが震える声で呟く。
巨大な魔物が俺たちを見る。
そして。
「――――グオオオオオオオッ!」
凄まじい咆哮が森を揺らした。
「全員、散れ!」
レオンの声と同時に、魔物が地面を踏み砕いた。
ズドンッ!
衝撃が走る。
騎士たちが吹き飛ばされた。
「ぐあっ!」
「大丈夫か!」
「立て!」
魔物が腕を振り回す。
レオンは横へ飛んだ。
巨大な腕が頭上を通過する。
その風圧だけで身体がよろめいた。
「……速い!」
巨体からは考えられない速度だった。
「魔法部隊!」
「はい!」
「まずは動きを止めろ!」
「はっ!」
魔法使いたちが一斉に魔法を放つ。
炎。
氷。
雷。
風。
大量の魔法が魔物へ殺到する。
だが。
「効いてない……!」
先ほどの魔物と同じだった。
毛が焦げる。
皮膚に傷がつく。
……それだけ。
「魔法耐性が異常です!」
魔法使いが叫ぶ。
レオンは魔物を見つめた。
そして気づいた。
「……いや」
「レオン様?」
「効いてないわけじゃない」
魔物の身体から、微かに魔力が漏れている。
「こいつは魔法を受けるたびに、身体中へ魔力を回して防いでいる」
「つまり?」
「魔力を集中させている場所があるはずだ」
レオンは目を凝らす。
首。
胸。
腹。
そして。
「……額だ」
魔力の流れが、額の紋様から始まっている。
「魔力の中心は、あの紋様だ!」
隊長が叫ぶ。
「全員、額を狙え!」
騎士たちが一斉に動いた。
だが、魔物はそれを察知した。
「来るぞ!」
巨大な腕が振り下ろされる。
騎士たちが左右へ散る。
レオンは正面から魔物を見据えた。
「俺が引きつける!」
「レオン様!」
「魔法部隊は準備してくれ!」
レオンは走った。
魔物の注意を自分へ向ける。
「こっちだ!」
魔物が追ってくる。
腕が振り下ろされる。
避けた所の地面が砕ける。
さらに反対側から腕が迫る。
剣で受けずに、身体を低くしてかわした。
そして。
「今だ!」
魔法が一斉に飛んだ。
炎。
氷。
雷。
風。
すべてが魔物の額へ集中する。
――ドォォォン!
爆発が起こった。
煙が魔物の頭部を覆う。
「やったか!」
だが、煙の中から魔物が立ち上がった。
「……まだだ!」
額には亀裂が入っている。
しかし、魔物は倒れていない。
むしろ。
「魔力が増えている!」
魔法使いが叫ぶ。
赤黒い光が強くなる。
「まずい!」
魔物が咆哮した。
そして、周囲の木々が一斉に倒れ始めた。
「全員、離れろ!」
レオンが叫ぶ。
魔物の身体から大量の魔力が噴き出す。
騎士たちが吹き飛ばされ、レオンも地面を転がった。
「ぐっ……!」
痛みを堪えて立ち上がる。
魔物がこちらを見る。
その目には、明確な殺意があった。
「……まだやるのか」
レオンは剣を握り直す。
そのとき。
「レオン様!」
隊長が叫んだ。
「騎士たちで動きを止めます!」
「頼む!」
「魔法部隊!」
隊長が振り返る。
「もう一度、額へ集中攻撃!」
「はい!」
騎士たちが一斉に魔物へ向かった。
盾で攻撃を受け止める。
槍で足を狙う。
剣で腕を斬る。
魔物の動きが一瞬だけ止まる。
「今だ!」
魔法が飛ぶ。
炎。
氷。
雷。
風。
もう一度、すべての魔法が額へ集中する。
赤黒い紋様に亀裂が走った。
「レオン様!」
隊長が叫ぶ。
「今です!」
レオンは走った。
魔物が腕を振る。
レオンはその下を潜り抜けた。
そして。
「――――!」
剣を振り上げ額の紋様へ、全身の力を込めて振り下ろす。
――バキィィン!
紋様が完全に砕けた。
同時に魔物の身体から、凄まじい量の魔力が噴き出した。
「うわっ!」
「下がれ!」
全員が距離を取る。
巨大な魔物は身体を大きく震わせ、そのままゆっくりと倒れていった。
ズドォォォン――。
地面が揺れる。
そして静かになった。
「……」
「……」
誰も動かなかった。
魔物は動かない。
魔力の流れも消えている。
魔法使いが慎重に確認する。
「生命反応……ありません」
その言葉を聞いて。
騎士たちが大きく息を吐いた。
「終わった……」
「今度こそ……」
隊長がレオンのところへ駆け寄る。
「レオン様!」
「大丈夫だ」
レオンは剣を下ろした。
「みんなは?」
「全員、無事です。負傷者はいますが、命に関わる者はいません」
「そうか……」
レオンは目の前の巨大な魔物を見る。
これほどの魔物を自分たちが倒した。
未知の魔物の群れ、そしてその中でも特に強大だった二体。
今回の討伐は、間違いなく大きな功績になる。
父上が言っていた。
誰にも文句を言わせないほどの功績を立てろ。
これなら……。
エリスとの結婚を反対する者たちにも、少しは認めてもらえるかもしれない。
「……帰ろう」
レオンは言った。
「王都へ戻って、今回のことを報告する」
「はい!」
騎士たちが頷く。
森を出る準備を始める。
そのときだった。
誰も見ていなかった。
倒れた巨大な魔物の指がほんのわずかに動いた。
額の砕けた紋様の奥で赤黒い光が、一瞬だけ灯った。
森を出てからしばらく。
レオンたちは王都へ向かっていた。
騎士たちは疲れ切っている。
だが、誰もがどこか誇らしげだった。
「王都に着いたら、すぐに報告ですね」
「ああ」
レオンも頷く。
「今回の魔物について、詳しく調べてもらわないとな」
「これだけの魔物です。王国史に残る討伐になるかもしれません」
「そうだな」
レオンは笑った。
そしてまたエリスのことを考えた。
「……早く会いたいな」
自然と声が漏れる。
無事に帰ってきた。
そう伝えたい。
今回の戦いのことも話したい。
そして約束したことを、もう一度伝えたい。
必ず、みんなを納得させる。
必ず、エリスと結婚する。
そのために、自分はもっと強くならなければならない。
そんなことを考えながら、レオンは王都への道を歩いていた。
だがその身体の奥には、まだ誰にも気づかれていない異変が起きていた。
魔物から受けた攻撃によってできた傷。
その傷口から、少しずつ血が流れていた。
そしてその血に混じるように。
赤黒い魔力が、ゆっくりと身体の中へ入り込んでいた。
レオン自身は、それに気づいていなかった。
ただ少し疲れているだけ。
そう思っていた。
王都の城壁が見えてくる。
「……もうすぐだ」
レオンは呟いた。
しかし城門をくぐる直前、突然視界が揺れた。
「……あれ?」
足が止まる。
「レオン様?」
隊長が振り返る。
「どうしました?」
「……いや」
レオンは額に手を当てた。
「少し……目眩がしただけだ」
「大丈夫ですか?」
「ああ」
笑おうとした。
だが、身体が思うように動かない。
「……?」
膝から力が抜ける。
「レオン様!」
隊長が慌てて支える。
「どうしたんですか!」
「……大丈夫……」
そう答えようとした。
けれど、口から出たのは。
「……エリス……」
その名前だけだった。
そしてレオンの身体は、完全に力を失った。
「レオン様!」
騎士たちが一斉に駆け寄る。
「医療班を呼べ!」
「急げ!」
王都の城門前が、一瞬で騒然となった。
誰も知らなかった。
魔物から受けた一撃が、レオンの命を奪いかねないほどの傷になっていたことを。
レオンが命懸けで掴んだ功績は、まだ終わっていなかった。
そして、彼の命を救うことになる少女はこのとき、まだ何も知らなかった。
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