第十話
ここは……どこだろう。
最初に思ったのは、それだった。
「……」
目を開けても、ほとんど何も見えない。
薄暗い。
窓があるのかどうかすら分からない。
ただ、壁のどこかに小さな隙間があるらしく、そこから細い光が差し込んでいる。
その光が、床の一部分だけをぼんやりと照らしていた。
夜ではない。それだけは分かる。
けれどそれ以外は、何も分からなかった。
私はゆっくりと身体を起こした。
「……っ」
頭が重い。
後頭部が鈍く痛む。
目の前が少し揺れたけれど、しばらくすると落ち着いた。
手や足を動かしてみる。
身体に大きな異常はない。
服も着たままだった。
私は自分の身体を確認してから、ようやく記憶を探した。
昨日、私は図書館にいた。
いつもの場所で本を読んで……。
それから――。
「……」
思い出せない。
図書館を出た。
そこまでは覚えている。
その後、誰かの気配を感じた。
振り返ろうとしたその前に、後頭部に強い衝撃。
身体から力が抜けて視界が暗くなった。
――そこから先の記憶がない。
「……誘拐、されたのかな」
口にした瞬間。
自分でも驚いた。
思っていたより、声が震えていなかった。
怖い。
もちろん怖い。
心臓はずっと速く動いている。
それでも頭の中は、妙に冷静だった。
私は部屋を見回した。
広くはない。
木の床。
古びた壁。
窓はない。
扉が一つ。
部屋の隅には古い木箱と、水差し。
薄い毛布。
それだけ。
私は扉へ近づき、耳を当てる。
「……」
聞こえる。
男の声……低い声が二つ。
少し離れたところから、別の声も聞こえた。
三人……いや、少なくとも三人。
もしかすると、もっといる可能性もある。
私はすぐに扉から離れた。
そのとき、隣の部屋から声が聞こえてきた。
「……だから、俺は最初から嫌だったんだよ」
「今さら何言ってんだ」
「だってよ。相手は貴族のお嬢様なんだろ?」
「そうだって聞いてる」
「だったら余計なことするな。俺たちは頼まれたことをやるだけだ」
私は息を止めた。
――頼まれた。
やっぱり。
偶然、私が襲われたわけではない。
誰かが、私を狙っていた。
「でもよ」
別の男が言った。
「こんな嬢ちゃんを、こんなところに閉じ込めて……本当に大丈夫なのか?」
「金はもらったんだ。文句言うな」
「金の問題じゃねえよ」
「じゃあ何だ?」
「……もし見つかったら、俺たちはどうなる?」
しばらく沈黙があった。
「知らねえよ」
「依頼主に聞け」
「俺たちは依頼主の顔すら知らないだろ」
「俺たちみたいな下っ端はしょうがねぇ。選択肢なんて最初から無ぇんだよ。言われたことを、やるだけだ」
私は唇を噛んだ。
依頼主の顔を知らない。
つまりこの人たちは、私を攫うように命令されただけ。
私が誰なのか。
なぜ攫われたのか。
そこまでは知らないらしい。
「……」
でも逆に少しだけ安心した。
少なくともこの人たち自身が、私を憎んでいるわけではない。乱暴に扱われることはないだろう。
けれど、それは別の怖さを意味していた。
私をここへ連れてきた目的を、この人たち自身も知らない。
だったら、依頼主は何をするつもりなのだろう。
私は膝を抱えた。
レオン。
クラリス。
ディーン。
きっと、探してくれている。
そう思いたかった。
でも私はすぐに、別のことを考えた。
私がいないと知ったら、レオンはどうするだろう。
きっと、手段を選ばず探す。
私が困っているのを知ったら、放っておけない人だから。
「……」
胸が少しだけ温かくなる。
だからこそ、私はなんとしても無事にここから出なければならない。
不思議だ……レオンのことを考えるだけで力が湧いてくる。
「……まずは、ここから出る方法を考えよう」
私は立ち上がった。
怖がっているだけでは、何も変わらない。
部屋の中を調べる。
窓はない。
壁に穴はない。
扉は外側から鍵がかかっている。
使えそうなのは古い木箱くらい。
私はそおっと木箱を持ち上げた。
「……重い」
でもこれなら、扉を開けた瞬間にぶつければ、一瞬くらい隙ができるかもしれない。
私は静かに木箱を扉の近くへ運んだ。
そして息を潜めて待つ。
しばらくすると足音が聞こえてきた。
一人。
ゆっくり近づいてくる。
私は木箱を握った。
ガチャ。
鍵が回る。
扉が開いた。
「おい。水、飲むか?」
入ってきたのは、三十代くらいの男だった。
私は咄嗟に後ろへ下がった。
男は水差しを置く。
「……そんなに警戒するなよ」
「……」
「お前に恨みはねぇ。別に、何もしねえよ」
男が出ていこうとする。
私は思い切って口を開いた。
「あの」
「あ?」
「どうして、私をここへ連れてきたんですか?」
男が止まった。
「……依頼されたからだ」
「誰に?」
「知らねえ」
「名前も?」
「知らねえよ」
「では、どうして私を?」
男は少し黙った。
「俺たちはお前の顔写真を渡されて、それを見て連れてこいって言われただけだ」
「写真……」
背筋が冷たくなる。
私の顔を知っている。
つまり私を狙った人間は、私の顔を知っている。
「私を、どうするつもりなんですか?」
「それも知らねえ」
「……」
「ただ、傷つけるなとは言われてる」
私は目を見開いた。
「……傷つけるな?」
「ああ」
「殺せ、とかでなく?」
「そんなことは言われてない。それならお前はもうとっくにこの世にいねえよ」
少しだけ、息がしやすくなった。
けれど男は続けた。
「それと、逃がすなとも言われてる」
「……」
「だから大人しくしてくれ。俺たちだって、余計なことはしたくねえんだ。もう良いだろ。これ以上は話せねぇ」
男が出ていく。
扉が閉まり、鍵がかかる。
カチャン。
その音が、やけに大きく聞こえた。
私はしばらく動かなかった。
まだ何もされていない。
それは確かだった。
だからといって、安心はできない。
私は水を一口飲んだ。
そしてもう一度、扉を見る。
――逃げる。
今しかない。
私は木箱を扉の前へ移動させた。
鍵が開いた瞬間、木箱をぶつけてその隙に外へ出る。
それしかない。
私は息を潜めた。
やがて。
足音。
一人。
近づいてくる。
ガチャ。
鍵が回った。
扉が開く。
「――今!」
私は木箱を思い切り押した。
「うわっ!」
男がよろめく。
私は扉の隙間を抜けた。
廊下。
出られた。
その先に外へ繋がっているらしい扉が見える。
私は走った。
「待て!」
後ろから怒鳴り声が響く。
振り返らない。
とにかく全力で走る。
あと少し……手を伸ばす。
その瞬間。
腕を掴まれた。
「――っ!」
身体が強く引かれる。
「離して!」
私は必死に腕を振った。
けれど男の力には敵わない。
「おい!こいつ、逃げようとしたぞ!」
別の男が駆けてくる。
私は身体を捻る。
それでも逃げられない。
「離して!」
「大人しくしろ!」
腕を強く掴まれる。
痛い。
私は顔をしかめた。
男たちの表情も変わっていた。
さっきまでの余裕はない。
「逃げられたら俺たちが困るんだよ!」
「依頼主に殺されるぞ!」
――殺される。
私は凍りついた。
誰が?
私を?
それとも。
逃がした彼らを?
男たちは慌てたように私を部屋へ押し戻した。
扉が閉まる。
鍵がかかる。
私は床に座り込んだ。
「……っ」
腕が痛い。
でもそれよりも、今の言葉が頭から離れない。
依頼主に逆らえばこの人たちでさえ、何かされる。
それほど相手は怖い人物なのだ。
私は自分の腕を抱いた。
そしてそのとき、隣の部屋から声が聞こえた。
「……もうここには置いとけねえぞ」
「なんでだ?」
「外が騒がしい」
「……こいつを探してる連中か?」
「分からねえ。ただ、近くで大勢の声がする」
私は顔を上げた。
さっきの言葉に、胸が大きく鳴った。
レオン達が探しに来てくれた?
でもどうしてここが?
男たちの会話が続く。
「こいつを探しに来てるんじゃねえか?」
「だったら、予定を早めるしかない」
「でも、依頼主は――」
「知らねえよ」
男の声が低くなる。
「今夜、別の場所へ移す」
「今夜?」
「ああ」
「まだ早いだろ」
「見つかる前に動くんだよ」
「でも、移送先は?」
「連絡が来る」
「もし連絡が来なかったら?」
「……そのときは、ここには置いておけない。最悪はこいつを……分かってるな」
「……あ、ああ」
私は息を呑んだ。
今夜、ここから移される。
ここがどこなのか分からない。
それでもこの建物なら、まだ外へ出られる可能性がある。
もし移されたら……もう二度と戻れないかもしれない。
私は立ち上がった。
「……逃げなきゃ」
そのときだった。
外からかすかな音が聞こえた。
馬の蹄。
……?
私は扉に耳を当てた。
遠い。
でも確かに聞こえる。
そして建物の外で、誰かが叫んだ。
「――誰だ!」
男たちが一斉に黙った。
しばらくして。
「一人だ」
「……一人?」
「馬を一頭連れてる」
私は息を止めた。
一人。
学園の捜索隊ではない。
教師でもない。
なら。
誰?
男たちが慌て始める。
「こんなところに一人で来るなんて、何者だ?」
「知らねえよ」
「様子を見てこい」
「お前が行け」
「嫌だよ」
言い争う声。
私は扉に耳を押しつけた。
外からゆっくりと足音が近づいてくる。
一人。
本当に、一人だけ。
やがて建物の入り口で、低い声が響いた。
「……ここか」
その声を聞いた瞬間。
胸がざわついた。
聞き覚えがあるような、ないような。
微か過ぎて誰か分からない。もしかすると……レオン?
男たちが騒ぎ始める。
「何で勝手に入ってくるんだ!」
「おい!武器を持て!」
「一人なら問題ない!」
「囲め!痛い目にあわせてやる。勝手に入ってきたお前が悪いんだからな、不法侵入ってやつだ」
複数の足音が走る。
私は扉の前から離れた。
怖い。
何が起こっているのか分からない。
けれどその一人の男が。私を探してここまで来たような気がした。
そして建物の外で激しい物音が響いた。
誰かが殴られたような音。
怒鳴り声。
足音。
そしてもう一度、大きな衝撃音。
私は息を呑んだ。
その直後。
隣の部屋から、男の叫び声が響いた。
「がぁぁぁぁ!!!」
「こいつ……!」
「何なんだ、こいつは!」
私は扉を見つめた。
外で一人の男が複数の男たちと戦っている。
どうして。
どうして一人で?
そしてなぜだろう、胸の奥がどうしようもなく騒いでいた。
まるでずっと待っていた人が、すぐそこまで来ているように。
あの人は、レオンなのだろうか。私は扉に手を置いた。
「……誰なの?」
返事はない。
ただ外からまた、大きな音が響いた。
そしてその向こうから、愛しい、聞き慣れた声がした。
「――エリス!」
私は目を見開いた。
「……もしかして、レオン?」
その名前が口からこぼれた。
間違えるはずがない。
レオンだった。
たった一人で私を探してここまで来てくれた。
けれどその直後、外から鈍い衝撃音が何度も響き始めた。
私は扉に駆け寄った。
「レオン……!」
返事はない。
聞こえてくるのは男たちの怒鳴り声と、何かが倒れる音だけ。
そしてひときわ大きな音が響いた。
――ドンッ。
私は扉の前で立ち尽くした。
胸の奥が、嫌な音を立てていた。
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