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一羽目は、もう飛んでいる

便箋の裏には、白瀬陽菜の名前があった。

ただ名前があるだけじゃない。

彼女がこの異常事態の中心にいるとでも言いたげな一文だった。

『白瀬陽菜は、蝶か。

それとも、竜巻か。』

俺はしばらく、その文字から目を離せなかった。

朝日を透かさなければ見えないほど薄い文字。最初に便箋を開いたときには、まったく気づかなかった。普通に読めば雨宮栞からのラブレター。光にかざせば、白瀬陽菜を示す謎の一文。

「白瀬陽菜は蝶か竜巻か、ね」


横から覗き込んだ相沢朔が、眠そうな目のまま呟いた。

「意味分かるか?」

「分かるような、分からないような。少なくとも、ラブレターの裏に書く文章ではないな」

「それは分かってる」

俺は便箋を折りたたみ、もう一度教室の中を見た。

白瀬陽菜は、自分の席に座っていた。数人の女子に囲まれて、いつものように笑っている。柔らかい笑顔。明るい声。誰が見ても、朝から怪文書に関わっているようには見えない。

「今すぐ聞きに行くなよ」

朔が言った。


「何で分かった」

「分かるよ。顔に書いてある。『白瀬、お前何を知ってる』って」

「……そんな顔してたか」

「してた。あと、今行っても無駄だと思うぞ」

「何でだよ」

「綺麗な顔で『何のこと?』って言われて終わりだから」

腹立たしいが、否定はできなかった。

もし白瀬陽菜が何かを知っているとしても、今の俺には何の証拠もない。便箋の裏に名前があった。ただそれだけだ。問い詰めたところで、偶然だと言われれば終わる。

いや、偶然ですらない。

誰かが陽菜を疑わせるために書いた可能性もある。

俺は便箋を制服の内ポケットにしまった。

「昼休みに整理する」

「賢明だな。朝から美少女に詰め寄る男は、だいたい負ける」

「勝ち負けの話じゃない」

「人間関係はだいたい勝ち負けだよ」

そう言って、朔は自分の席へ戻っていった。



一時間目の現代文は、ほとんど頭に入らなかった。

教師の声が黒板の前で響いている。教科書のページは開いている。ノートも机の上にある。けれど、俺の頭の中には、雨宮栞の名前と、白瀬陽菜の笑顔と、便箋の裏の文字だけがぐるぐる回っていた。

雨宮栞はイギリスにいる。

この学校の生徒ではない。

栞のことを知っている人間は限られている。

それなのに、手紙には三年前の図書室のことが書かれていた。

そして、待ち合わせ場所は旧図書室。

旧図書室は、この高校の校舎の端にあるらしい。俺も存在くらいは知っているが、実際に入ったことはない。今はほとんど使われておらず、古い資料や廃棄予定の本が置かれている場所だと聞いたことがある。

そこに、放課後来いと書かれている。


最初は腹が立っていた。

勝手に人の初恋を引っ張り出すな。

栞の名前を使うな。

三年前のことを、勝手に触るな。

でも、時間が経つほど、怒りの中に別のものが混ざり始めた。

誰がこんなことをしたのか。

どうやって栞のことを知ったのか。

旧図書室には本当に何かあるのか。

そして、白瀬陽菜はなぜ、蝶か竜巻なのか。

怒りだけなら、手紙を破って捨てれば済む。

でも俺は、もう捨てられなかった。


昼休みになり、俺は弁当を持って朔の席へ向かった。

「今日はここで食うのか」

朔は購買のパンを開けながら言った。

「話があるからな」

「怪文書会議?」

「言い方」

「実際そうだろ」

俺が席に座ると、近くにいた女子がこちらを見た。

伊藤香織。

同じクラスの女子で、討論部に所属している。普段から論理的な話が好きで、休み時間にも教師の発言やニュースの内容に対して、やたらきっちり意見を述べている姿をよく見る。友人が多いタイプではないが、距離を取られているわけでもない。

要するに、少し変わっている。そしてよく話す限られた友人の一人だ。


「何こそこそ話してるの?」

伊藤が弁当箱を持ったまま近づいてきた。

「怪文書の話」

朔が即答した。

「何それ。面白そう」

「面白くはない」

俺が言うと、伊藤は目を細めた。

「その反応は面白いやつね」

勝手に椅子を引いて、俺たちの近くに座る。

「で、どんな怪文書?」

「お前、遠慮とかないのか」

「あるわよ。だから、見せなさいとは言わずに内容を聞いてる」

「大差ないだろ」

朔はパンをかじりながら笑っていた。完全に他人事だ。


俺は少し迷ったが、結局、手紙のことを話すことにした。伊藤は噂に敏感というより、情報を整理するのが上手い。下手に隠すより、意見を聞いた方がいいかもしれない。

ただし、便箋そのものは見せずに話した。

三年前にイギリスへ行った雨宮栞という中学時代の知人から、今朝ラブレターが届いたこと。

手紙には、俺と栞しか知らないはずの図書室の思い出が書かれていたこと。

放課後、旧図書室で待っていると書かれていたこと。

そして、便箋の裏に『白瀬陽菜は蝶か竜巻か』という文字があったこと。

伊藤は黙って聞いていたが、最後まで聞くと箸を止めた。

「雨宮栞?誰?」

「中学の同級生」

「じゃあ、この学校でその子のことを知ってる人は少ないわね」

伊藤はすぐにそう言った。


「そこが気持ち悪いんだよ」

「同じ中学だった人は少ないようね」

「何人かはいる、というレベルだな」

「佐倉が誰かに話した可能性は?」

「ないとは言い切れない。でも、栞の名前を出して話した記憶はほとんどない」

「ふうん」

伊藤は卵焼きを口に入れ、少し考え込む。

「少なくとも、校内の誰でも知ってる名前ではないわね。そこはかなり大きいと思う」

「犯人候補が狭まるってことか?」

「そう。雨宮栞を知っている人。佐倉の中学時代を知っている人。あるいは、どこかから調べた人」

「調べた人、か」

俺は内ポケットにある便箋を意識した。

白瀬陽菜なら、それくらいできるのだろうか。

いや、そもそもどうやって?


「あと、旧図書室も気になるわね」

伊藤が言った。

「旧図書室?」

「ええ。あそこ、普通は入れないことになってるでしょう?」

「鍵が閉まってるんじゃないのか?」

「建前上はね」

伊藤は少し得意げに言った。

「実は、鍵が古いのよ。ドアノブの横を押しながら少し持ち上げるように引くと、引っかかりが外れて開く」

「何で知ってるんだよ」

「去年、討論部の資料を探して、顧問に連れて行かれたことがあるの。古い新聞とか校内誌が置いてあるから。その時に、先生が普通に開けてた」

俺は少し身を乗り出した。

「その開け方を知ってる奴は多いのか?」

「多くはないと思う。少なくとも、普通に生活していたら知る機会はないわ。図書委員、先生、古い資料を使う部活、あとは偶然知った人くらいじゃない?」

「……その開け方を知ってるなら、お前も候補に入るな」

「まさか」


「で、その白瀬が蝶か竜巻ってやつだけど」

朔がペットボトルの蓋を開けながら言った。

「蝶ってことは、綺麗って意味か?」

「白瀬さんなら、蝶みたいに綺麗って意味は普通にありそうね」

伊藤が頷く。

「男子が書いたなら特に。白瀬さんって、見た目だけなら本当に絵になるし」

「見た目だけなら?」

俺が聞くと、伊藤は少し気まずそうに目を逸らした。

「別に悪口じゃないわよ。ただ、完璧すぎる人って、少し警戒しちゃうだけ」

朔が笑う。

「分かる。白瀬さんって、綺麗な花瓶に毒入ってそうな感じあるよな」

「言い方が悪すぎる」

「褒めてる」

「絶対違う」


俺は二人の会話を聞きながら、便箋の文を思い返した。

蝶。

竜巻。

蝶は分かる。

陽菜は確かに綺麗だ。クラスにいるだけで、自然と目を引く。本人が何かをしなくても、周囲が勝手に反応する。

では、竜巻は何だ。

「竜巻は?」

俺が聞くと、伊藤は少し真面目な顔になった。

「影響力じゃない?」

「影響力?」


「白瀬さんって、ただ綺麗なだけじゃないでしょ。いるだけで空気が変わる。誰かが白瀬さんを見る。誰かが舞い上がる。誰かが嫉妬する。誰かが勝手に噂する」

伊藤は教室の中を一度見回した。

陽菜は少し離れた席で、女子たちと弁当を食べている。そこだけ妙に明るい。

「そういう意味では、竜巻みたいな人かも。ちょっかいを出した人は男女問わず吹き飛ばされるでしょうね」

「蝶みたいに綺麗で、竜巻みたいに吹き飛ばす、か」

朔が言った。

「いいじゃん。白瀬さんのキャッチコピーに使えそう」

「本人に言うなよ」

「言わないよ。まだ死にたくない」

「でも蝶なら、蜂のように刺す、じゃないんだな」

「何それ?」

「昔のボクサーの言葉。蝶のように舞い、蜂のように刺す」

「白瀬さんの場合、刺すどころか吹き飛ばすってことか」

「それで竜巻か」


「佐倉」

朔が言った。

「今はどうなんだ?」

「何が」

「朝は怒ってただろ。今は?」

俺は少し考えた。

「……ちょっとだけ、面白くなってきた」

口にしてから、自分で驚いた。

伊藤が笑う。

「ほらね。高校生活って、たまにはこういう変な事件があった方が思い出に残るわよ」

「他人事だから言えるんだろ」

「半分はね」

「半分は?」

「もう半分は、私も放課後に旧図書室へ行くつもりだから」

「何でだよ」

「面白そうだから」


朔が頷く。

「俺も行く。昼飯奢ってもらう約束だし」

「二人とも暇なのか」

「論理的好奇心よ」

「友情だな」

同時に言われて、俺はため息をついた。

放課後。


三人で旧図書室へ向かった。

校舎の端に近づくほど、人の気配は薄くなっていく。窓の外からは運動部の掛け声が聞こえる。サッカー部の笛の音。テニスボールを打つ乾いた音。どれも学校らしい音のはずなのに、旧図書室へ続く廊下に入った途端、急に遠く感じた。

「こういう場所、だいたい何か出るよな」

朔が言った。

「やめろ」

「出るとしたら雨宮さん?」

「イギリスから突如戻ってきて旧図書室で待ち合わせ、はそれはそれで怖いんだが」

「じゃあ一番怖いのは人間か」

「結局それが一番怖いのよ」

伊藤が平然と言った。


廊下の突き当たりに、古いプレートがあった。

――旧図書室。

ドアは閉まっている。

俺はドアノブを回した。

動かない。

「鍵、閉まってるな」

「建前上はね」

伊藤が前に出た。

ドアノブの横に手を添え、少し押し込むようにしてから、ドアを持ち上げるように引く。

かちゃり。

古い金具が外れるような音がした。

三人とも、一瞬だけ黙った。

ドアが、開いた。

「……本当に開いた」

「だから言ったでしょ」


中に入ると、古い本の匂いがした。

埃っぽい空気。使われていない机と椅子。背の高い本棚。窓から入る夕方の光が、床に細長く伸びている。

誰もいなかった。

分かっていた。

栞がここにいるはずなんてない。

それでも、ドアを開ける直前、俺はほんの少しだけ期待していた。

三年前の続きを、誰かがここで用意しているんじゃないかと。

「誰もいないな」

朔が言った。

「ああ」

「でも、何かはある」

伊藤の声で、俺は部屋の中央を見た。

机の上に、一冊の本が置かれていた。

他の本は本棚に雑然と並んでいるのに、その本だけが机の真ん中に置かれている。誰かが、俺たちに見つけさせるために置いたみたいに。

俺は近づいた。

表紙を見た瞬間、息が止まった。

『夏の終わりの観測者』

三年前、栞と最後に話した本だった。

「知ってる本?」

朔が聞く。

「栞と最後に話した本だ」

自分の声が、少し遠く聞こえた。

伊藤が本を開く。

中には、貸出カードが挟まっていた。

今の高校図書室は電子管理のはずだ。貸出カードなんて、もう使われていない。この本がこの場所に、俺を待つように置かれていること自体がおかしい。

カードには、古い名前が並んでいた。

佐倉湊斗。

雨宮栞。

そして、一番下に新しい文字。

雨宮栞。

今日の日付。


朔が覗き込み、低く呟いた。

「イギリスから借りに来たのか?」

「冗談にしては笑えない」

俺はカードを持つ指に力を入れた。

その時、本の間から、細いしおりが落ちた。

床に落ちる前に、伊藤が拾う。

「何か書いてある」

俺はしおりを受け取った。

そこには、短くこう書かれていた。

『三年前の続きを知りたいなら、

白瀬陽菜に、蝶の話を聞け』

教室で笑っていた陽菜の顔が、脳裏に浮かんだ。

「蝶って、また出てきたわね」

伊藤が言った。

「竜巻の方じゃなくて、蝶か。見ただけでわかりそうなのにな」

朔が続ける。

俺は返事ができなかった。

本を閉じようとした瞬間、裏表紙に鉛筆で書かれた小さな文字に気づいた。

『一羽目は、もう飛んでいる』

その文字を見た瞬間、俺はなぜか確信した。

次に会うべき相手は、もう決まっている。

白瀬陽菜だ。


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