白瀬陽菜に蝶の話を聞く
旧図書室で見つけたしおりには、白瀬陽菜の名前があった。けれど、それを書いたのが白瀬本人だとは限らない。むしろ、彼女が知らない誰かが、俺たちを彼女のもとへ向かわせようとしているのかもしれなかった。
『三年前の続きを知りたいなら、白瀬陽菜に、蝶の話を聞け』
その文章をもう一度見下ろしてから、俺は旧図書室の扉を閉めた。廊下には、放課後の光が斜めに差し込んでいる。
手元にはしおりがある。そして、あの本もある。
『夏の終わりの観測者』
三年前、雨宮栞と最後に話した本。その中に挟まっていた貸出カードには、今日の日付で雨宮栞の名前が書かれていた。現実味を失ってほしいのに、証拠だけは俺の手の中に残っている。
「で、どうする?」
朔が廊下の壁にもたれながら言った。
「白瀬さんに話を聞くしかないでしょうね」
伊藤が即答する。
「まあ、そうなるよな」
朔は面倒くさそうに頭をかいた。
「ただ、話してくれるとは限らないけどな」
「それでも聞く」
俺はしおりを制服のポケットにしまった。
「ここまで名前が出てるなら、避ける理由がない」
「いいね、行動力が出てきた」
「茶化すな」
「茶化してない。半分くらいは感心してる」
「残り半分は?」
「面白がってる」
こいつは本当に悪びれない。
俺たちは教室へ戻った。放課後の教室には、まだそれなりに生徒が残っていた。部活へ行く前に雑談している奴。スマホを見ている奴。机に突っ伏して寝ている奴。いつも通りの教室だ。
その中で、白瀬陽菜は自分の席にいた。数人の女子に囲まれて、何かを話している。彼女が笑うと、その周囲だけが少し明るくなる気がした。大げさではなく、本当にそう見える。
学校一の美少女、という言葉は便利だ。白瀬陽菜を説明するのに、それ以上分かりやすい言葉はない。けれど今の俺には、その言葉だけでは足りなかった。
白瀬陽菜は、綺麗だ。でも、それだけじゃない。彼女の周囲は、ただそれだけで華やかになる。そこにいる人間まで、少しだけ物語の登場人物みたいに見えてしまう。
俺は白瀬の席へ向かおうとした。
「待て」
朔に肩を掴まれる。
「何だよ」
「教室の真ん中で聞く話じゃないぞ」
伊藤も頷いた。
「人の名前が出ている以上、変な噂になるわ」
「もう十分変な話だろ」
「だからこそよ。周りがなんと思うかしら」
正論だった。
俺は少し息を吐いてから、白瀬の近くへ行った。女子たちの会話が、俺が近づいたことで少しだけ止まる。白瀬陽菜に男子が話しかける。たったそれだけで、教室の一部がこちらを見る。
やっぱり、竜巻という言葉は大げさではないのかもしれない。
「白瀬」
俺が声をかけると、白瀬はゆっくりこちらを見た。
「何、佐倉くん?」
「少し話せるか」
周囲の女子たちが、明らかに反応した。白瀬は驚かなかった。むしろ、来るのを待っていたみたいに笑った。
「わかった」
白瀬が立ち上がろうとしたところで、近くにいた内山が怪訝そうに俺を見た。
「何の用事?」
「まあ、ちょっと」
俺がそう答えるのと、白瀬が同じ言葉を口にするのはほとんど同時だった。
一瞬だけ、胸の奥がざわつく。
白瀬はそれを面白がるように、少しだけ笑った。
俺たちは放課後の階段踊り場へ移動した。教室から少し離れているが、完全に人目がない場所ではない。廊下の向こうを生徒が通ることもある。話すには十分静かで、秘密にするには少し心もとない場所だった。
白瀬は手すりに軽く指を置いて、俺たち三人を見た。
「それで、何の話?」
「蝶の話だ」
俺は単刀直入に言った。白瀬は少し首を傾げる。
「蝶?」
「旧図書室にあったしおりに書いてあった。白瀬陽菜に蝶の話を聞けって」
「私に?」
「そうだ」
白瀬は少し考えるように視線を上げた。
「……蝶か。私、蝶って言われたことあったかな」
本当にピンと来ていないように見えた。
「便箋の裏には、こう書かれてた」
俺は続ける。
「白瀬陽菜は蝶か。それとも、竜巻か」
白瀬はそれを聞いて、ほんの少し笑った。
「竜巻は嫌だな」
「否定するのか?」
「うん。私は何もしないよ。吹き飛ばすわけでもない。命令するわけでもない。誰かの背中を押すわけでもない」
「じゃあ何をするんだ」
「見るだけ」
その言葉は、静かだった。不思議なほど悪びれていない。まるで、それが一番正しい立場だと信じているみたいだった。
「見るだけで済むと思ってるのか」
「済むかどうかは、動いた人が決めることじゃない?」
伊藤が小さく息を呑んだ気配がした。朔は黙って白瀬を見ている。俺は白瀬から目を逸らせなかった。
「お前、怖いこと言うな」
「そう?」
「そうだろ」
「誰かが見て、誰かが話して、誰かが勝手に動く。そこから先は、その人たちの問題でしょ?」
「無責任だな」
「そうかもね」
白瀬の目が、俺を見る。
「でも、結果は私の領域ではない。私は何もしないの」
しばらく、誰も言葉を返せなかった。
階段の下を通り過ぎる誰かの足音だけが、やけに大きく聞こえた。
「でも、君はすごいなと思って」
「馬鹿にしてるのか」
「違うよ。評価してる」
白瀬はあっさり言った。
「特に、私に話をしに来たところは評価する」
「評価?」
「うん。怖がって避けるより、ずっと面白い」
やっぱり、こいつは面白がっている。俺が怒ることも。俺が動くことも。俺が彼女の前に立っていることも。全部、彼女にとっては観察対象なのだ。
「俺は面白がられるために来たんじゃない」
「知ってる。でも、面白いものは面白いよ」
白瀬はそう言って、階段の下をちらりと見た。ちょうど、数人の生徒がこちらを通り過ぎていく。視線が一瞬だけこちらに向いた。白瀬陽菜と、俺。そこに朔と伊藤もいるとはいえ、見ようによってはいくらでも変な噂にできる。
白瀬は楽しそうに言った。
「後から噂されるよ」
「何を」
「佐倉くんが、放課後に私を呼び出してたって」
「面倒なことを言うな」
「私は何もしないよ。ただ、誰かが見て、誰かが話すだけ」
その後に何が起きても、白瀬は自分のせいではないと言うのだろう。たぶん、理屈としては間違っていない。だからこそ、余計に腹が立った。
「もう一つある」
俺は言った。
白瀬が目を細める。
「何?」
「本の裏表紙に、鉛筆で文字が書いてあった」
「何て?」
「一羽目は、もう飛んでいる」
その瞬間だった。白瀬の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
本当に短い間だった。気のせいだと言われれば、それまでだ。けれど俺だけではない。朔も伊藤も、その変化に気づいたらしい。
白瀬はすぐにいつもの表情へ戻った。
「……それ、どんな字だった?」
「何で気にする」
「見たいなと思って」
「嫌だ」
即答すると、白瀬は少しだけ楽しそうに笑った。
「どうして?」
「お前が書いたかもしれないから」
「私が書いたなら、見る必要ないと思わない?」
「逆に、そう言うと思ったから見せない」
白瀬は数秒、俺を見つめた。それから、満足したように笑った。
「佐倉くん、思ったより警戒心あるんだね」
「褒めてるのか?」
「うん。今日はずっと褒めてるよ」
「全然そうは聞こえない」
「それは受け取り方の問題かな」
白瀬は階段の手すりから手を離した。
「で、蝶の話だけど」
俺は身構えた。しかし白瀬は、核心を話すつもりがないようだった。
「私には、まだ分からない」
「まだ?」
「うん。だから、その文章は見てみたかったんだけどな」
「見せない」
「残念」
本当に残念そうではなかった。いや、少しだけ残念そうにも見えた。そこが分からない。白瀬はいつも、どこまで本気なのか分からない顔をしている。
「高校生活って面白いね」
唐突に、白瀬が言った。
「何が面白いんだよ」
「昨日までは何でもなかった朝が、今日は事件になるところ」
彼女は階段の下へ一歩進む。そして振り返った。
「そして、新しい出会いがあるところ」
「出会い?」
俺が聞くと、白瀬は笑った。
「人でも、事件でも、噂でも。何でも」
「何でも楽しいんだな」
「うん。変かな?」
「変だな」
「そっか」
白瀬はそれすら楽しそうに受け止めた。
「じゃあ、またね。佐倉くん」
そう言って、白瀬は階段を降りていった。彼女の足音が遠ざかる。しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは朔だった。
「佐倉」
「何だ」
「あいつ、『一羽目』のところだけ反応が違ったな」
伊藤も頷く。
「蝶も竜巻も受け流した。でも、あの文章だけは見たがった」
「つまり?」
「白瀬さんの想定外だった可能性がある」
俺は白瀬が消えた階段の下を見た。白瀬陽菜は、何かを知っている。でも、全部を知っているわけじゃない。
もしそうなら。旧図書室に本を置いた誰かは、もう一人いる。
「白瀬が全部知ってるわけじゃないなら、他に調べるべきことがある」
「三年前の事件ね」
伊藤がすぐに言った。
三年前。病死した子から、三か月連続でラブレターが届いた事件。白瀬が第1話の朝に口にした話だ。今の俺たちは、その話の中身をほとんど知らない。だが、今回の手紙とつながっている可能性は高い。
「三年前なら」
朔がふと思い出したように言った。
「うちの姉が、ちょうどこの高校にいたな」
「姉?」
「今、大学二年。ここの卒業生。三年前なら、たぶん二年か三年だったはず」
伊藤が少し身を乗り出す。
「ちょうど当時の生徒ね。聞ける?」
朔は露骨に嫌そうな顔をした。
「聞けるけど、面倒くさいぞ。うちの姉、こういう話好きだから」
「頼む」
俺は即答した。
朔は大きくため息をついた。
「分かったよ。今夜、連絡してみる」
その日の夜。机に向かっても、数学の問題は一問も頭に入ってこなかった。白瀬陽菜の声が、何度も頭の中で再生される。
――高校生活って面白いね。
――昨日までは何でもなかった朝が、今日は事件になるところ。
――そして、新しい出会いがあるところ。
あいつは、人間じゃなくて出来事そのものに恋をしているみたいだった。
そんなことを考えていたとき、スマホが震えた。朔からだった。
『姉貴に聞いた』
すぐに、続けて通知が来る。
『三年前のラブレター事件、覚えてるって』
俺はスマホを握ったまま、画面を見つめる。さらに、もう一通。
『病死した子の名前は、春野紬』
俺はその名前を、声に出さずに読んだ。
春野紬。
いるはずのない人から届いたラブレターは、これが初めてじゃない。
偶然の一致を、白瀬がたまたま知っていただけ?
そんなはずがない。
その直後、朔からさらに一通メッセージが届いた。
『姉貴が、直接話したいって』
『明日の放課後、駅前のカフェでいいか?』
俺はすぐに返信した。
『行く』
送信ボタンを押してから、もう一度、春野紬という名前を見る。
三年前に終わったはずの事件が、今になって俺たちを旧図書室へ呼び戻している。
そんな気がした。




