イギリスにいる初恋の人から、 下駄箱に手紙が届いた
雨宮栞は、三年前にイギリスへ行った。
今も向こうで普通に暮らしているはずだ。
だから、俺の下駄箱に彼女からのラブレターが入っているのは、どう考えてもおかしかった。
白い封筒だった。
何の変哲もない、コンビニでも売っていそうな封筒。けれど差出人の名前を見た瞬間、俺は息をするのを忘れた。
――雨宮栞。
指先が、勝手に冷たくなる。
三年前の春。
毎週金曜日の放課後。
彼女は、俺が借りた本をよく後から借りていた。そして毎週金曜日の放課後、中学の図書室でその本の感想を話し合った。
俺は、本の趣味が合う子なんだと思っていた。けれど、本当に読みたかったわけじゃない。
それを知ったのは、彼女が日本を離れる前日だった。
『本を返すふりをして、佐倉くんと話したかっただけ』
その言葉だけが、今でも妙にはっきり残っている。
けれど栞は、その次の日にイギリスへ行った。親の海外転勤だった。今は現地校で元気に笑っているらしい。
らしい、というのは、俺が本人と連絡を取っていないからだ。
告白もしていない。
別れの言葉も、うまく言えなかった。
中途半端なまま、俺の初恋は終わった。
……いや、終わったことにしていた。
俺は封筒を裏返した。
差出人の名前以外、何も書かれていない。
下駄箱の周囲には、朝のざわめきがあった。部活帰りの男子。眠そうに歩く女子。廊下の奥から聞こえる笑い声。いつも通りの高校の朝。
その中で、俺だけが別の場所に落とされたみたいだった。
「佐倉?」
背後から声をかけられて、肩が跳ねた。
振り向くと、相沢朔が立っていた。俺の数少ない友人で、だいたい昼休みにどうでもいい話をする相手だ。目つきは眠そうで、口元だけがいつも皮肉っぽい。
「何その顔。幽霊でも見た?」
「幽霊の方がまだマシかもしれない」
「朝から詩的だな。似合わないぞ」
俺は答えず、手元の封筒を見せた。
朔は差出人の名前を見て、眉を少しだけ動かした。
「雨宮栞って、中1でイギリス行った子だよな?」
「たぶん、その雨宮」
「帰国したとか?」
「聞いてない」
「じゃあ、誰かの悪戯か」
朔はあっさりそう言った。
それが一番まともな答えだった。
けれど俺は、まだ封を開けられずにいた。
「佐倉」
「何だよ」
「中身は?」
俺は親指を封の隙間に入れ、紙を破らないようにゆっくり開けた。中には便箋が一枚だけ入っていた。
丸みのある字だった。
栞の字を思い出した。
便箋には短い文章が書かれていた。
『放課後、旧図書室で待っています。
三年前、本を返すふりをして、本当は君と話したかった。
今度こそ、続きを聞かせてください』
最後に、小さくこう続いていた。
『好きでした。雨宮栞』
廊下の音が遠くなった。
三年前、本を返すふりをして――。
その一文は、俺と栞しか知らないはずだった。
少なくとも、俺はそう思っていた。
「……おい」
朔の声で、ようやく意識が戻る。
「顔色悪いぞ」
「ふざけた奴がいる」
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
朔は少し目を細めた。
「ドッキリじゃないのか?」
「これがドッキリだったら……TVだったら大炎上だな」
「そんなにか……。じゃあどうするんだ?」
俺が何をしたいのか。
最初に浮かんだのは、怒りだった。
勝手に人の初恋を引っ張り出すな、という怒り。
次に浮かんだのは、恐怖だった。
三年前の記憶を、誰かが覗いているような気味の悪さ。
そして最後に残ったのは、情けないほど単純な気持ちだった。
知りたい。
あの時、終わらせられなかったものが、今になって俺の前に戻ってきた。
偽物でも、本物でも、悪戯でも構わない。
この手紙を書いた奴を見つける。
そして、なぜこんなことをしたのか聞く。
それが今の俺の目的だった。
「俺は、これを書いた奴を見つける」
もう一度言った。
「栞の名前を使った理由を聞く。俺と栞しか知らないはずのことを、どうして知ってるのかも」
朔は少しだけ口角を上げた。
「いいね。朝から面倒なことになってきた」
「楽しそうに言うな」
「他人事だからな」
「手伝えよ」
「嫌だと言ったら?」
「昼飯を奢る」
「安い友情だな。まあいいけど」
朔はそこで、ふと俺の背後に視線を向けた。
「で、あっちの人は関係あるの?」
「あっち?」
振り向いた先に、白瀬陽菜がいた。
廊下の少し離れたところ。
窓から入る朝の光の中で、彼女は自然に立っていた。
学校一の美少女。
そんな言い方は大げさに聞こえるが、白瀬陽菜に限っては誰も否定しない。成績優秀で、教師からも生徒からも好かれていて、女子からも男子からも距離が近い。誰にでも笑いかけるのに、誰のものにもならない。
たぶん、この学校で一番目立つ人間だ。
そして俺にとっては、ただのクラスメイトだった。
少なくとも、昨日までは。
陽菜は俺と目が合うと、ゆっくり近づいてきた。
「おはよう、佐倉くん」
「おはよう」
「すごい顔してるね。何かあった?」
その声は、柔らかかった。
心配しているように聞こえた。
だけど、俺はなぜか楽しんでいるようにも聞こえた。
「ラブレター?」
陽菜は、俺の手元を見て言った。
その言葉に、胸の奥が小さく引っかかった。
「どうしてそう思った?」
「可愛らしい封筒だから」
陽菜はくすりと笑う。
「違った?」
「……いや」
「誰から?」
俺は答えなかった。
朔が横で面白そうに見ている。
余計なことを言うなよ、と目で訴えたが、朔は何も言わなかった。珍しく空気を読んだらしい。
陽菜は俺の沈黙を見ても、困った顔をしなかった。
「言いたくないならいいよ」
「悪い」
「ううん。でも……嬉しそうには見えないね」
「そうか?」
「うん。むしろ、怒ってるみたい。もしそういうラブレターなら気をつけたほうがいいかも」
「何に?」
陽菜はそこで、窓の外を見た。
「この学校、そういう噂が前にもあったらしいよ」
背筋に冷たいものが走った。
「前にも?」
「うん」
陽菜は俺に視線を戻す。
「三年前。病死した子から、ラブレターが届いた人がいたんだって」
「……悪趣味な冗談だな」
「うん。最初はそう思われた。でも、一通で終わらなかった」
「終わらなかった?」
「三か月、届き続けたんだって。結局、犯人は分からないまま」
廊下のチャイムが鳴った。
朝のホームルームを告げる音が、校舎中に響く。
周囲の生徒たちが教室へ急ぎ始める中、俺だけがその場から動けなかった。
三年前。
病死した子からのラブレター。
栞は死んでいない。
けれど、いるはずのない人から手紙が届くという形は同じだった。
陽菜は一歩だけ俺に近づき、小さな声で言った。
「佐倉くん」
「何だ」
「もし待ち合わせ場所が旧図書室なら気をつけてね」
「何に?」
陽菜は笑った。
その笑顔は、心配しているようにも、楽しんでいるようにも見えた。
「そこ、本当に誰かが待ってるかもしれないから」
そう言って、陽菜は教室へ入っていった。
俺は手元の便箋を握りしめる。
旧図書室。高校の校舎の端にある、今はほとんど使われていない部屋。
雨宮栞。
三年前の記憶。
病死した子からのラブレター。
そして、白瀬陽菜のあの笑顔。
放課後、俺は旧図書室に行く。
この手紙を書いた奴を見つけるために。
俺の初恋を勝手に動かした誰かを、必ず見つけるために。
その時、便箋の裏側に、まだ文字があることに気づいた。
表には気づかなかった。
光に透かした時だけ、薄く見える文字。
俺は窓際に移動し、朝日へ便箋をかざす。そこには、たった一行だけ書かれていた。
『白瀬陽菜は、蝶か。
それとも、竜巻か。』
俺は教室の中を見る。
陽菜は席に座り、友人たちに囲まれて笑っていた。
まるで、これから何が起きるのかを、全部楽しみにしているみたいに。




