旅立ちの時
翌日のマーズィンの経過は良好であった。リューはトラウベを片手に、彼が休んでいる病室へと入る。
「おい! 腹が痛いぞ! 本当に治っているのか!?」
手術が終わり、麻酔が覚め、痛みのピークが過ぎたマーズィンは、いつもの傲慢さを取り戻していた。リューは彼の喧騒には耳を傾けず、腹の傷の観察と腸蠕動音の診察へ移る。
傷は出血もなく、腸の音も良さそうだった。
「……それだけ叫ぶ元気があるなら問題ないでしょう」
リューは所見を診療録に記入していく。その後、診療所のドアが開きマーズィンの両親が入ってきた。昨日の激情はどこへやら、2人とも深々と頭を下げる。
「先生、ありがとうございました」
一晩経って頭が冷え、元気そうに無事に騒ぎ立てる息子を見てホッとしたのか、2人の言動は非常に落ち着いたものになっていた。
「当然のことです、術後の注意点をご説明しますので少々お待ちください」
リューは術後の経過について、また今後起こり得る合併症について説明する。臍ヘルニアの術後で特に気を付けるべきなのは、早期再発予防のため、腹筋に負荷のかかる激しい運動を避けることであった。
「……というわけで、日常生活で避けられない範囲の負荷なら仕方ありませんが、腹筋運動や重量物の運搬などは避けてください。また帰ってからしばらくは、なるべく粥など胃腸に優しいものを食べてください。手術の傷は優しく洗浄してください。問題なければ7日目に抜糸をしますので、その時に再度来院してください」
リューの説明を聞き漏らすまいと、マーズィンの両親は真剣な表情で聞いていた。
「説明は以上です。何もなければ7日後の抜糸でお待ちしております」
リューはカルテを閉じて一礼する。マーズィンと彼の両親は椅子から立ち上がり、親子3人で診療所を後にする。その間際、マーズィンはリューを一瞥して“約束は守る”と小さく呟いた。
彼らは迎えの荷車で帰途に就いた。その姿を見送りながらリューが呟く。
「これで一件落着か」
「ああ、だがまだやることは山積みだぞ」
ハッサンが満足げに頷く。診療所に戻ると二人は引っ越し準備に取りかかった。書籍や医療器具を箱に詰めながらハッサンが言う。
午後になるとカナンが手伝いに来た。
「お邪魔します。何かお手伝いすることはありますか?」
「あ、ワルートの娘さん! ちょうど良いところに!」
ハッサンが笑顔で迎える。
「診察室の器具を一緒に整理してくれるか?」
「はい!」
カナンは嬉しそうに頷いた。彼女がハッサンと働き始めたのを見て、リューはキッチンで道具を確認する。鍋や包丁がきちんと箱に収まっているのを確かめると、窓際へ歩み寄った。
広くはないが、ハッサンと2人で過ごしたこの家には、様々な思い出が刻まれている。この家との別れが近づいていることも、リューを感傷的にさせていた。
「リュー? どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
カナンが心配そうに近づいてきた。リューは小さく首を振る。その後も引っ越し準備は着々と進められた。
尚、引っ越しの準備期間中に、ラマーファ中心部の飲食店や屋敷の料理人たちから「プリンのレシピを買いたい」という申し出が多数あり、首都での本格的な新生活に備えた臨時収入となった。
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それから1週間後、マーズィンの抜糸を無事に終え、この街での最後の仕事を終えたリューとハッサンは、街の外れの隊商宿を訪れていた。空は雲一つない快晴で、首都への旅立ちを控えた隊商の列の中に、彼らの引っ越し道具を詰め込んだ荷車が並んでいる。
隊商のリーダーは、診療所の患者であるラマーファの豪商たちが口利きをしてくれた者だった。
リューとハッサンが乗る荷車の周りには、見送りの患者たちが集まっている。
「準備完了だな、皆に挨拶してくるよ」
「うん」
そういうとハッサンは患者たちの輪に向かう。その間、リューは最後の点検を行い、全ての荷物が積み込まれていることを確認する。
「リュー! おはよう!」
遅れてカナンがやってきた。少ない荷物を詰めた鞄を背負い、リューのもとへ駆け寄ってくる。その背後には見送りに来たワルートの姿があった。
「カナン!」
リューは自らの胸元に飛び込んできたカナンを受け止める。婚姻の約束を交わした2人は、人目も憚らず抱擁を交わしていた。
(なぁエルン、……俺たちの娘が首都に嫁いでいくぞ)
ワルートはその光景を見つめ、今は亡き妻に心の中で語りかける。彼の妻エルンはカナンを出産して間もなく亡くなった。彼女が生まれる以前に居た子供たちは皆、病で幼いうちに逝ってしまった。カナンとワルートはお互いに唯一の肉親同士だった。
ワルートは2人のもとへ歩み寄る。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「カナンを頼む、リュー先生」
「はい!」
リューが答える。その真っ直ぐな瞳には、絶対に不自由な思いはさせないという決意が込められていた。
「幸せになれよ、カナン。だがもし、辛いことがあったらいつでも帰って来い!」
「……うん!」
カナンは満面の笑みを浮かべる。リューはこれまでにない幸せを感じていた。
振り返ると患者たちが手を振っている。ハッサンが戻ってきて御者の席に腰掛けた。リューとカナンも荷車へ乗り込む。
「出発するぞ!」
隊商のリーダーが声を張りあげる。その声に呼応して、隊商の列がゆっくりと動き出した。
「さあ、行こうか!」
ハッサンが手綱を振るうとラクダが歩き出し、荷車がゆっくりと動き出す。そしてワルートたちの姿が徐々に遠ざかっていく。リューは荷車から身を乗り出し、振り返りながら深々と頭を下げた。
「ハッサン! リュー! いつかまた帰ってきてねーっ!」
シャナの声が風に乗って届く。リューは再び頭を下げると前方へ向き直った。物語の舞台は再び首都イスファダードへと移る。
荷車は砂漠へと進んでいく。リューはカナンとしっかりと手を握りながら、新しい生活の幕開けを感じていた。彼らの冒険はまだ始まったばかりなのだ。
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アバスフマル帝国はアシニー大陸と呼ばれる大陸のほぼ中央に位置する大国だ。その領土の西端に「ダマーシュク」というオアシス都市がある。帝国の西の玄関口であり、主に西方の国々から交易のために多くの人々が訪れる陸路貿易の要衝だ。
故に街の郊外に位置するバザールは多くの人波でごったがえしている。その中に、荷車から交易品を荷卸する2人の青年がいた。
「どうした? お前、具合悪そうだぞ?」
「いや……」
青年の一方は、朝から顔色の悪いもう1人の青年を気遣う。
「調子悪いなら少し休んどけよ」
「あ、ああ、すまねェ」
荷車の荷台に立つ青年は、ペアの青年に休むよう促す。体調の悪い青年は彼の言葉に素直に甘え、休息を取るために日陰へ移ろうとした。
その時だった。
「ゲエエエッ!!」
「おい! 大丈夫か!」
青年はまるで噴水のような嘔吐を噴き出した。もう1人の青年は荷台から飛び降り、彼のもとへ駆け寄る。
アバスフマル帝国に新たな悪魔が忍びよっていた。
第4章が終わりました。メインヒロインが本領発揮した章でしたね。
次回は第5章「死を運ぶ病編」を予定しております。その後は「後宮編」「故郷編」という題目で詳細な構想を立てています。
自分でも書いていてなかなか楽しくなっています。




