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フィッシュアンドチップス

 鍛冶屋のワルートは、リューが依頼した「点滴セット」の作成に専念するため、作業場に篭り切りになっている。彼は基本的に鍛冶屋仕事を1人で行っている。そして、娘であるカナンが怪我や火傷を負うことを避けるため、彼女が自分の仕事を手伝うことを快く思わない。

 カナンはそんな父の邪魔にならない様に、水筒と軽食を傍に置いて、街の広場に足を運んでいた。崩れた石垣に腰掛ける彼女の両耳には、リューから送られた赤い珊瑚のイヤーカフが輝いている。


「……」


 彼女の手には、1冊の本が握られている。それは彼女が文字を勉強するため、リューが手渡した「教科書」だった。カナンはリューの力になりたいと願っている。そのためには、文字の読み書きが必須であると決意し、彼女はリューに教えを乞うていた。


 この国には漢字の様な「表意文字」は存在しない。故に、リューは彼女のために文字と音の対応表を作成した。そして最初の関門として、古今東西あらゆる寓話が載せられた寓話集を、最初の教科書として彼女に渡したのである。


「……よお、カナン」

「……マーズィン」


 カナンがふと見上げると、そこには取り巻きを引き連れた少年が立っていた。上等な仕立ての衣を羽織っており、小金持ちの息子であることを窺わせる。

 彼の名はマーズィン・ドゥハーラー=シャハラニー、ラマーファの中心街に暮らす豪商の息子である。市井の人々からは、悪友たちを取り巻きとして引き連れる姿が有名で、素行も良くないことからあまり好かれていない。

 それはカナンも同様であり、彼女の顔は曇っている。


「なんだ? イヤーカフなんか付けて色気付いちまって……」


 マーズィンが冷ややかな目でカナンの耳を睨んだ。彼の手が伸びる瞬間、カナンは反射的に身を引いた。


「……触らないで!」

「そんな安物の耳飾りが似合うと思ってるのか? 貧乏鍛冶屋の娘には相応しい代物だな。それに送ってくれた野郎も……同じ貧乏平民か何かだろう?」


 マーズィンは鼻で笑った。彼の取り巻きたちも一緒に嘲笑する。


「あなたに関係ないでしょ!」


 カナンの頬が紅潮した。彼女は膝の上の本を強く抱きしめる。だが、彼女の気持ちなど一切気遣うことなく、マーズィンが一歩近づいた。


「なぁカナン、もうすぐ謝肉祭だ。今年こそ俺と一緒に来いよ」

「何度言われても答えは同じよ、あなたの誘いには絶対に応じない」


 カナンは毅然と言った。

 2人が出会ったのは2年前、当時15歳だったカナンの容姿を気に入ったマーズィンが、彼女を謝肉祭に誘ったのがキッカケだった。その時はワルートが彼らを追払って事なきを得たが、それ以降も街で出くわすと、こうしてしつこく絡んでくる。カナンは非常に煩わしく思っていた。


「強情だな、だが考えてもみろよ。街一番の豪商の息子である俺がお前みたいな小娘を選んでやってるんだ。普通なら飛びついて喜ぶべきだろ」

「余計なお世話。あなたと一緒にいるより、父さんと仕事をする方がずっと幸せだもの」


 カナンは父との二人三脚の日常が幸せだった。それに、今の彼女にはリューと一緒に医学の発展に携わるという使命がある。だが、マーズィンは彼女の言葉を冷笑した。


「俺の機嫌を損ねたらどうなるか……わかってるだろ? お前の父親の鍛冶屋が商売出来なくなるのも簡単なんだぜ?」

「……!?」


 彼は豪商の息子という権力を振りかざす。カナンは唇を噛みしめた。


「そんな卑怯な……」

「卑怯? 俺が? 力を持つ者がそれを駆使して有利に事を運ぶ……当たり前のことだろ?」


 その時だった。


「カナンさんに何かご用ですか?」


 爽やかな声が広場に響いた。全員の視線が一点に集中する。そこにはリューが立っていた。


「なんだ? テメェは……」

「どうも、リュージーン・ヒルクライハー=ロランと申します。しがない街医者ですよ」


 リューは涼やかに答えた。マーズィンは彼の冷静かつ凄みのある表情を見てわずかにひるむ。


「ロラン……?」

「確かあの街外れの診療所の名だ、その倅か……」


 取り巻きたちがブツブツと話している。リューはそんなことには目もくれず、話を続けた。


「さっき、ワルートさんの仕事がどうこう言っていましたが、心配いりませんよ。彼の鍛冶屋には、我々が様々な仕事を注文していますから」

「……何だと?」


 マーズィンの眉が吊り上がる。


「ええ、金属加工に関して他に類を見ない技術をお持ちですから。外科手術で使う特殊な器具を1つ1つ製作してもらっています。おかげで値も張りますが、これも技術に対する正当な対価ですから。滞りなくお支払いしています。最近は首都の医学学校からの受注もあったそうで……だよね、カナン?」

「ウ、ウン!」


 カナンはこくこくと頷いた。

 リューは以前、医学学校の外科医たちに腕の立つ外科道具屋としてワルートのことを教えていた。そのこともあって、リューがラーマヤナ王国に発った3ヶ月の間に、ナスールやアブアールたちがリューの考案した外科道具の追加生産を頼んだことがあったのだ。

 マーズィンの表情が硬くなる。首都からの評判を得ている職人と聞いて、彼の威嚇する態度が微妙に萎んだ。


「だから……たとえ貴方が何をしようとも、ワルートさんの仕事が減ることはあり得ない」

「……この野郎」


 マーズィンの拳が震える。


「ふんっ! 覚えてろ!」


 彼は捨て台詞を吐くと取り巻きと共に逃げるように立ち去った。残されたカナンは目を丸くしてリューを見つめていた。


「リュー……!」

「大丈夫だった? 鍛冶場に行ったらここにいると聞いたから……」


 リューは優しく微笑む。彼女は感極まって声を詰まらせた。


「ありがとう……本当にありがとう……」

「気にしないで」


 リューは軽く肩を叩く。


「……本を読んでたんだね。進捗はどう?」


 彼は文字の勉強の進捗具合について問いかけた。


「これ……全部自分で読めるようになったの」


 彼女は少し照れながら本を見せた。リューの目に喜びが宿る。


「すごいじゃないか!」

「リューのおかげだよ。いつか……私もリューの手助けができるようになりたいの」


 カナンは初めて笑顔を見せる。


「今でも十分、助けになってるよ」


 リューは温かく頷いた。カナンの耳元で赤い珊瑚のイヤーカフが日の光を受けてきらりと光る。


「あと……一体何なんだ? さっきの連中は?」


 リューは話を変えて、カナンに絡んでいた男の素性について尋ねる。その瞬間、カナンの顔は再び曇ってしまった。


「マーズィン・ドゥハーラー=シャハラニーという男です。ラマーファの豪商の息子で……いつも取り巻きを引き連れて威張り散らしてるの」

「なるほど……」


 リューは少し考え込んだ。


「なぜ君に執着してるんだ?」

「さあ……理由なんてないのかも」


 カナンはあっけらかんと答える。

 よく考えてみれば、リューはカナンのことを何も知らない。あんな連中に執着されていることすら、リューは知らなかった。


「ねぇ、もし君が良ければだけど……、今年の謝肉祭、一緒に行かないか?」

「え! 私と!?」


 リューは意を決して、彼女を祭りに誘う。カナンは目を見開いていた。


「いや、……カナンが嫌なら」

「ううん! 行きたい! リューとなら行きたいです!」


 カナンの表情が一気に明るくなる。かくして、2人は共に謝肉祭に参加することになった。


: : :


 ワルートが作業場に篭り切りになる間、カナンは文字の勉強のため、足繁くリューとハッサンの診療所に通っていた。


「寓話集、簡単な文学集なら問題なく読めるようになったね。流石だよ、カナン」

「エヘヘ……!」


 褒められたカナンは嬉しそうに笑う。

 この国「アバスフマル帝国」が位置する「アシニー大陸」は、大陸の西側3分の2と東側3分の1を分つ山脈を境に大きく文化が分かれる。そしてこの大陸西方は乾燥地帯であり、文化・言語は多少の違いはあれど、ほとんど似通っている。故にこの国の言語・文字が操れれば、少なくともこの大陸西方で大きく困ることはない。


「ただいま!」

「あぁ、おかえり、父さん」


 外出していたハッサンが帰宅する。その両手には患者からの贈り物が抱えられていた。


「以前、私が馬車から落ちて怪我を負った時の患者のもとへ行ってきた。診療所を閉めると言ったら、あの時のお礼と選別を兼ねて、これを渡してくれたんだ」


 ちょうど半年前、ハッサンは刃物で怪我をした豪商の娘を治療したことがあった。その帰り道、暴風雨に煽られて送迎の馬車ごと小川に転落し、左足に重傷を負った。


「ああ、あの時の……。それで、何をもらって来たの?」

「えぇっと、確か……」


 ハッサンは荷物をテーブルの上に置いた。それはヤシで織られた大きなカゴであり、蓋を開けると様々な「食材」が顔を出した。


「これは……立派な鶏卵だなぁ」

「これは小麦か」

「大きなジャガイモ!」


 リューとカナン、ハッサンは、次々にカゴの中の食材を取り出した。その中には珍しいものもあった。


「これは?」

「……あ、もしかして」


 リューはカナンが取り出した瓶の中身に、鼻先を近づける。


「蜂蜜だね、これは良いものを貰った」

「は、蜂蜜!?」


 カナンは驚きの声を上げた。

 砂漠地帯でサトウキビ栽培が難しいこの国では、砂糖類は舶来品としてしか手に入らない。故に蜂蜜が主な甘味料として重宝されているが、それも庶民にとっては中々手に入らないものだった。


「……よし! 良いこと思いついた!」


 リューは目の前の食材を見て、とある献立を思いつく。




 リューは釣竿と網を持って、近くの川へ訪れていた。その隣にはカナンの姿もある。彼はカビかけのパンを丸め、釣り針の先に刺した。


「リュー、何を釣るの?」

「良いから見てて……!」


 カナンが隣で小首を傾げた。リューは既に準備万端で、木陰に座り込んでいる。この川には日本でいうところの「鯉」に近い「テルチ」という淡水魚が棲んでいる。


「……行け!」


 彼は糸をゆっくりと水面に垂らした。二人の間に静寂が流れる。微風がリューの黒髪を揺らし、カナンの赤いイヤーカフが陽光を反射していた。


「あっ! 来たかも!」


 しばらく経った後、彼の釣竿が大きくしなった。リューは素早く立ち上がり、慎重に竿を操る。そしてついにテルチが岸辺に打ち上げられた。緑褐色の鱗を持つ立派な一尾だ。長さは20cmくらいというところだろうか。


「すごい! 本当に釣れた! この魚は……?」

「テルチって言って、市場でも出回ってる魚さ。身は淡白で塩漬けにすることが多いけど、今日は貰った食材で別の調理法を試してみたくてね」

「別の調理法?」


 カナンは小首を傾げた。


「それは後のお楽しみ。でもまだまだ、あと4、5匹は欲しいな」


 リューはそういうと、釣り針から外したテルチをカゴの中へ放り込み、再び竿を小川に向かって放った。その後の釣りは順調だった。途中、カナンにも竿を持たせたものの、彼女の技術は未熟で何度か獲物を逃してしまった。

 しかしリューの巧みな手助けにより、最終的には3匹のテルチが捕獲された。


「リューって料理も出来るんだね!」

「当たり前だろう、父さんと2人暮らしなんだから」


 前世の記憶も相まって、リューは料理にそれなりの自信がある。その後、2人は西日に照らされながら帰路についた。


「ただいま」


 リューが木製の魚籠を掲げながら戸口をくぐった。中にはぴちぴちと跳ねる4匹のテルチがおり、緑褐色の鱗が太陽を反射して輝いている。


「ほう、短い間に結構釣れたもんだな」

「そうでしょ? カナンにも手伝ってもらったんだ」


 リューは自慢げに答えた。


「でも、私のはほとんど逃げちゃいました。リューの手助けのおかげです」

「いや、それでも初めてにしては上出来だよ」


 恥ずかしそうに笑うカナンに、ハッサンが優しく言った。


「それで……どうするんだ? これ」

「揚げ物にする。貰った食材を使ってね、ちょっと変わった料理を作ろうと思う。よかったらカナンも食べて行ってよ」

「え、いいの……!?」


 カナンは驚きの声を上げる。


「もちろんさ、釣りを手伝ってくれたお礼だよ。むしろカナンは大丈夫? ワルートさんは心配しないかな」

「ううん! 最近、お父さんは仕事に集中して夕飯も遅いの。だから大丈夫!」

「そっか、なんだかカナンには悪いことしっちゃったかな。だったら、ぜひ食べて行ってね」


 リューは魚籠を台所の水桶に入れながら答えた。

 その後、夕焼けが窓から差し込む台所で、リューは慣れた手つきでテルチを捌いていた。ナイフの背を使って緑褐色の鱗が次々と剥ぎ取られていく。

 そしてテルチの肛門にナイフの切先を差し込み、腹を開いて内臓を取り出す。軽快なナイフ捌きで3枚におろしていく。


「魚の処理が上手いな」


 ハッサンが感心したように言った。彼は鍋に油を注ぎ、かまどに薪を焚べて火の準備を始めている。


「ありがとう、ひとり……田舎暮らしには必須の技術だったからね」


 リューは前世の記憶を思い返していた。元々医学生時代は釣りが趣味だったため、魚を捌くこともよくあったのだ。

 リューは魚の切り身を酒に浸す。そうして臭みを消している間に、他の食材の準備をする。彼はジャガイモを手に取ると、慣れた手つきで皮を剥き、それを一口くらいの半月型に切り分け、かるく水洗いをする。

 続けて卵を何個か割ると、その中の卵黄のみを器用に別の調理皿にとりわけ、塩、酢を混ぜ合わせる。


「リュー、それは?」

「ソースだよ、これが味の決め手になる」


 カナンの問いかけに、リューは答える。彼は続けてオリーブ油を少しずつ加えていく。そしてソース全体が白っぽくクリーミーになってきたところで手を止めた。

 同時に、かまどの火がパキパキと音を立てて大きくなっていく。この家のかまどには鍋を固定するための穴が2つ空いていた。


「カナン、こっちの穴で卵とジャガイモを茹でてくれないか。卵が茹で上がったくらいで、ジャガイモも取り出してくれ」

「わ、わかった!」


 カナンはかまどの前に立ち、ハッサンから渡された鍋に水を注ぎ、水が沸騰するのを待つ。そして水が沸き立つのを確認したところで、卵とジャガイモをその中へ放り込んだ。

 同時に、リューもメインディッシュの準備を再開する。酒に漬けていた切り身を取り出し、その表面に塩で下味を付け、小麦粉をまぶす。


「今日はただの素揚げじゃなくて、特別な『衣』をつけるよ」


 彼は3つの調理皿を並べた。一つには小麦粉、もう一つには溶き卵、最後にパン屑を敷き詰める。リューは魚の身を小麦粉にまぶし、丁寧に余分な粉を払い落とした。


「これを卵液に通して……最後にパン粉をまぶす」


 彼は慎重に魚を卵に浸す。続けてパン屑の衣をその上にまぶした。カナンが驚いた様子で訊ねる。


「衣って何?」

「揚げ物の鎧さ。油を吸収しすぎないよう守ってくれるし、カリッとした食感にもなる」


 リューは説明する。そして全ての切り身にパン屑をまぶしたところで、ハッサンが用意していた油が温まった。


「おい、そろそろ油が温まったぞ」

「了解、じゃあ行くよ……!」


 熱せられた油の中に魚を入れると、シュワッと心地よい音が響き渡った。バターのような芳醇な香りが台所いっぱいに広がる。


「良い匂い!」


 カナンは思わず声を上げる。そして狐色に揚がったタイミングで、リューは魚のフライを鍋から取り出して行った。


「次にジャガイモも揚げる」


 魚が去った後の油へ、茹で終わって冷やしていたジャガイモを投入する。ジャガイモは軽快な音を立てて、同じように狐色へと変わっていく。


「さて、ソースの仕上げと行こうか」


 リューは揚がったジャガイモを取り出すと、戸棚の中を漁る。そこにはトルシーと呼ばれる、この国に伝わる酢漬けの野菜が保存された瓶があった。リューは瓶の中から小型きゅうりを3本ほど取り出す。


「さっき、カナンが作ってくれたゆで卵を潰す。そこに微塵切りにしたきゅうりのトルシーとさっきのソース……『マヨネーズ』を加えて混ぜる」


 リューが作るソースとは「タルタルソース」のことだった。彼はテルチのフライとフライドポテトをそれぞれ皿にとりわけ、フライの上にタルタルソースをかけていく。


「完成! フィッシュ……とポテトの揚げ物さ。アハハ、そのまんまだね」


 リューはわざとらしく言い直した。彼が作ったのはイギリスの伝統料理「フィッシュアンドチップス」だった。

 リューとハッサンは3つの皿とコップをテーブルに並べていく。そしてハッサンはとっておきの葡萄酒をグラスに注いだ。3人はそれぞれ椅子へと座る。


「じゃあ、早速食べようか。……美味し糧よ」

「美味し糧!」


 ハッサンに続いて、リューとカナンは手を合わせて目の前の食に対する感謝の言葉を述べた。琥珀色の灯りが揺れるテーブル上で、黄金色のフライが湯気を立てている。最初に食指を伸ばしたのはカナンだった。彼女はフォークを手に取り、金色のソースがかかったテルチのフライを口に運ぶ。


「……!」


 目を見開いた彼女の表情が全てを物語っていた。最初は驚き、次第に恍惚へと変わる。


「味はどう?」


 リューが優しく尋ねる。


「信じられないくらい美味しい! サクサクした衣の下に、柔らかい魚の身が……しかもこのソースの酸味が絶妙だよ! こんなの食べたことない!」


 カナンは夢中になって2口目を頬張った。ハッサンも黙々と食べていたが、グラスの葡萄酒を一気に飲み干すと大声で叫んだ。


「これは美味い!」


 彼は口髭についたソースを拭いながら続けた。


「これは……まるで宮廷料理のようだ! これも前……エヘン! 神の思し召しって奴かい?」

「大袈裟だよ、まあ……そうかもね」


 ハッサンはカナンにわからないように、この料理が前世の知識によるものかどうかを尋ねた。彼の意図を察したリューは、こくりと頷く。


「リューって本当に何でもできるのね! 料理も医術も……私には信じられないわ」


 カナンが興奮した声で割り込んだ。リューは窓の外に目を向けながら微笑む。


「たまたまさ。ただ……こういう瞬間が好きなんだ。自分の知識が人の役に立つのが」


 彼の視線が2人に戻る。夜が更けていく台所で、3つのグラスが澄んだ音を奏でた。葡萄酒と揚げ物の香りに包まれながら、彼らは幸せな時間を過ごすのだった。


 しばらくして、夕餉の時間が終わる。後片付けが終わり、カナンが帰る時間となっていた。リューは余った揚げ物を丁寧に紙で包んだ。


「カナン、ワルートさんへのお土産。頑張ってって、伝えて欲しい」

「ありがとう! きっと父も喜ぶよ!」


 カナンは嬉しそうに包みを受け取った。窓から見える空には満天の星が輝いていた。ハッサンが大きな欠伸をする。彼は立ち上がるとリューの肩を叩いた。


「もう寝る時間だな、カナンを家まで送ってやれ。この時間に若い娘を一人で帰らせるわけにはいかない」

「分かった」


 リューは頷いた。


「じゃあ行こう、カナン」

「……うん」


 2人は玄関を出て夜の道へと踏み出した。月明かりが足元を照らし、時折吹く風が2人の髪を揺らす。


「……美味しい食事をありがとう、父さんもきっと感激するわ」

「よかった」


 リューは星空を見上げながら答えた。


「あのさ、カナンに出会えて良かったよ」


 リューがぽつりと言った。カナンは驚いたように彼を見上げる。


「急にどうしたの?」

「いや……君のような友達がいてくれて安心する。俺、今まで同年代の友達とかいなかったから。友達としても安心するし、看護師としても頼もしい。君がいてくれたから、首都でもやっていけたんだ」


 リューは改めて彼女への感謝を伝える。


「本当にそう思ってくれてるの?」

「もちろん」


 リューは真剣な眼差しを向けた。その瞬間、カナンの頬が月明かりの中で薄紅色に染まった。


「私もリューに出会えてよかった。父の指を治してくれたことも、すごく感謝してる。一生をかけて報いたいと思うよ……」

「そんな、大袈裟……」

「大袈裟じゃないよ」


 カナンはリューの言葉をピシャリと遮った。


「だって……こうしてずっとリューと一緒にいられたらいいなと思うもの」

「!」


 思いがけない言葉にリューは足を止めた。カナンの潤んだ瞳と、星明かりに照らされる彼女の姿に、言葉が見つからない。そしてようやく絞り出した声は自分でも驚くほど震えていた。


「……俺も、もっと君に色々教えたいことがあるんだ」

「うん! 教えて! 文字だけじゃなくて……医学も、料理も!」


 カナンは嬉しそうに一歩近づく。2人の距離が一層縮まった瞬間だった。

 程なくして、2人は「ラムジー鍛冶屋」の前にたどり着いた。作業場の中はまだ煌々と明かりが灯っている。カナンは名残惜しそうに包みを抱きしめていた。


「着いたね、ワルートさんによろしく」

「うん……明日も待ってるわ」

「ああ、明日もまた会おう」


 2人は別れ際に静かに手を振った。それぞれの家路につきながらも、胸の奥で同じ思いが燃え続けていた。夜空の星々だけが彼らの密かな約束を見守っていた。

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