第8話:五十路の女傑、男装で夜を駆ける〜包囲されても不敵に「まあ困りましたわね」〜
五十歳にしてドレスを脱ぎ捨て、鎖帷子を着込んで真夜中の国境突破を図る――我が母のバイタリティは、生物としての規格が根本から桁外れだった。
普通の貴族なら輿に乗って安全な交渉を図るところを、自ら長剣を佩いて敵の包囲網を突破しようとするあたり、我が家には「穏便な話し合い」という初期設定が存在しないらしい。
――時は西暦一一七四年、夏。
ポワチエ宮殿の執務室で側近たちが青ざめる中、アリエノール・ダキテーヌは冷徹な瞳で地図を見つめていた。
「……報告いたします! スコットランド王は捕縛、ノルマンディーの包囲も粉砕! リチャード殿下は森へ敗走……ヘンリー王の先鋒はすでにロワール川を越え南下中とのことです!」
「ロワールを……もう渡ったというのですか?」
アリエノールは舌を巻いた。
あの男は形勢逆転のためなら自ら裸になって鞭打たれ、大衆の涙を完璧に操ってみせるのだ。
だが、ここで大人しく降伏するわけにはいかない。捕まればアキテーヌの自治権は剥奪され、二度と表舞台には戻れなくなる。
残された手は一つ。北東のフランス王領へ脱出し、前夫ルイ七世の元で体勢を立て直すことだ。
「――ドレスを脱ぎますわ」
「は……? 王妃様、何を……」
「この豪奢なスカートで馬に乗れとでも? 早急に革鎧と馬を用意なさい!」
侍女たちの悲鳴を余所に、アリエノールは絹のドレスを脱ぎ捨てた。
革の胴鎧と鎖帷子を纏い、豊かな黄金の髪を鉄兜に押し込み、腰に長剣を佩く。
現れたのは、当代一の美女ではなく凛々しき「男装の騎士」であった。
「前夫ルイの元へ辿り着けば、まだ立て直せますわ!」
アリエノールは不敵に笑い、数騎の側近とともに夜陰に乗じてポワチエを疾走した。
***
冷たい夜風が吹き抜ける。
月は雨雲に隠れ、街道は深い闇に包まれていた。
湿った土を蹴立てる蹄の音。
五十歳を迎えた身体には過酷な夜間疾走だったが、アリエノールの神経は獲物を狙う猛獣のように研ぎ澄まされていた。
「あと半日……! ロワール川の支流を越え、フランス王直轄領に入りさえすれば……!」
やがて森が途切れ、前方に林道の出口が見えた。境界の砦まであとわずか――!
勝利を確信した刹那。
バッ――ッ!
闇の中から無数の赤い松明の光が一斉に燃え上がった。
「なっ……!?」
木立の影から進み出た重装騎兵部隊。その胸当てに刻まれていたのは、黄金の獅子紋――ヘンリー二世直属の精鋭親衛隊だった!
「止まれッ!」
背後の森からも蹄の音が響き、退路は瞬く間に塞がれた。金属音が重なり、鋭利な槍の切っ先が一斉に突きつけられる。
「アリエノール王妃だな! ヘンリー二世陛下の名において身柄を拘束する!」
側近たちが剣を抜こうとするが、多勢に無勢であった。
「――おやめなさい」
アリエノールの透き通る声が空気を制した。
「無駄な血を流す必要はありませんわ。剣を収めなさい」
夫ヘンリー二世は、アリエノールの脱出ルートすら完璧に先読みしていたのだ。
アリエノールは手綱を離し、鉄兜の留め金を外した。
カチャリと兜が脱ぎ捨てられた瞬間――雲の切れ間から青白い月光が降り注いだ。
解き放たれた黄金の髪が夜風に広がる。
泥まみれの鎧を纏いながらも、圧倒的な気品と魔性を放つ女公爵の素顔が現れた。
切っ先を向ける騎士たちすら、その息を呑む美貌と威厳に気圧され、思わず手を震わせる。
幾十もの刃に囲まれた絶体絶命の窮地。
だが、アリエノールの瞳に絶望の色は微塵もなかった。
彼女は闇の中、爛漫たる微笑を浮かべた。
「――まあ、困りましたわね」
その微笑みは、盤上の次なる手を冷徹に見据える女王の不敵な輝きを宿していた。
無数の槍の穂先を突きつけられながら、兜を脱いで「まあ、困りましたわね」と優雅に微笑む五十歳の母上。
肝が据わっているにもほどがある。
こうして、大反乱の首謀者たる王妃アリエノールは捕縛された。
彼女を待ち受けていたのは、ドーバー海峡の向こう――イングランドの孤城ソールズベリー城での、十五年にも及ぶ長き幽閉の檻であった。




