第9話:監獄を離宮に変える母と、通気口から潜入する煤だらけの末っ子
監獄を優雅なサロンに変え、看守の衛兵隊長をチェスで四十二連敗させて手玉に取る――それが幽閉された我が母の日常であった。
病的な警戒心で母を城深くに閉じ込めた父ヘンリー二世だったが、当時七歳だった僕は、その厳戒態勢をすり抜け、通気口から煤だらけで母の元へ通い詰めていたのである。
――時は西暦一一七四年、秋。
イングランド南部、白亜の丘に聳えるソールズベリー城。
欧州中を魅了したアキテーヌの女公爵アリエノールは今、寒冷な城の奥深くに厳重幽閉されていた。
大反乱を鎮圧したヘンリー二世は、最愛にして最強の共同統治者であった妻の危険性を誰よりも恐れ、二重三重の武装衛兵で塔を固めさせていたのだ。
だが――石造りの一室に漂う空気は、陰惨な監獄のそれとはかけ離れていた。
「――まあ、チェックメイトですわ」
黒檀の駒が盤を打つ乾いた音が響く。
「……参りました、王妃様。これで通算四十二連敗です」
対面に座る衛兵隊長ラルフが、鉄兜を脱いで深々と息を吐いた。
本来は王の厳命を受けた冷徹な監視役である熟練騎士も、幽閉から数ヶ月で、すっかりこの妖艶な女傑に懐柔されていた。
五十歳を越えてなお美貌と気品は一切衰えず、柔らかなショールを羽織る姿は、まるで離宮で優雅な休日を過ごす貴婦人そのものだ。
「退屈しのぎに付き合ってくださって感謝しますわ。次は右のナイトを縛ってみましょうか?」
「勘弁してください。これ以上負けると、兵士としての尊厳が蒸発します……」
ラルフが苦笑いして駒を片付け始めた、その時だった。
部屋の隅、暖炉奥の通気口から微かな物音がした。
ラルフが瞬時に剣柄へ手をかけるが、アリエノールはパチンと扇を鳴らして制した。
「慌てないで、ラルフ。あの足音は……わたくしの可愛い小鳥さんですわ」
ギィィ……と控えめな軋み音を立て、壁の羽目板がゆっくりと持ち上がる。
現れたのは、煤と埃で顔を真っ黒にした七歳のジョンであった。
「母上! 潜入成功です!」
「まあ、ジョン! また狭い抜け道を通って……お洋服が煤だらけではありませんこと?」
アリエノールが膝をついて腕を広げると、ジョンは嬉しそうに駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
「えへへ、これを持ってきました!」
ジョンは上着の隠しポケットから、油紙の包みを取り出した。
中には、アーモンドの粉と白砂糖、薔薇水を練り上げた南仏の砂糖菓子が入っている。かつてアリエノールが東方から持ち帰り、アキテーヌ宮廷で大流行させた懐かしの味だ。
「厨房の補給記録を調べたら、南仏の交易品に紛れ込んでいるのを発見したんです! 料理長が居眠りする時間を計算して、確保してきました!」
「まあ素敵! あの懐かしいお菓子……よく持ってきてくれましたわね」
アリエノールが口に運ぶと、故郷の甘みと華やかな薔薇の香りが広がり、瞳を細めた。
だが、傍らで衛兵隊長ラルフは青ざめていた。
「……ジョン殿下! お願いですから、もう二度とここへ来ないでください! もし殿下が反乱首謀者の王妃様と内通していると知れれば、陛下はどれほど激怒されるか! 最愛の末子といえど即座に大逆罪に問われ、この塔の地下牢へ一生幽閉されかねないのですよ!?」
ラルフの必死の忠告に、アリエノールの胸に痛みが走った。
この幼い子が、自分のためにどれほどの危険を冒してここへ忍び込んできたのか。
「ジョン……ラルフの言う通りですわ。見つかれば、あなたまでお父様に罰せられかねないというのに……」
「だって、母上が冷たいお城に一人きりで、寂しそうにしてると思ったから……それに、アキテーヌの甘いお菓子、どうしても母上に食べてほしかったんです」
屈託のない笑顔でそう呟くジョンを、アリエノールはたまらず強く抱きしめた。
「それに大丈夫ですよ、ラルフ!」
母の腕から顔を出したジョンは、得意げに胸を張り、抱えていた羊皮紙を広げた。
「外庭の巡回ルートと交代時間を三日間観測・記録しました。父上の病的な厳戒態勢のおかげで、兵の巡回間隔は完璧に規則化されています。規則的であるということは、完璧に予測可能だということです! 東回廊は、小砂時計の砂が落ちきるまでの四百歩の間、完全に死角になります。百回見張って、見つかる隙があったのは三回だけです!」
「……算出の根拠があまりに綿密すぎて、余計に背筋が寒くなりますよ……! とても七歳の王子殿下のなさることとは思えません! 父君譲りの執念深さと王妃様の知謀をそのまま受け継いでおられる……」
ラルフは規格外すぎる王族の血筋に戦慄して額を押さえ、見張りのため部屋を出て重い扉を閉ざした。
***
暖炉の薪がパチパチと爆ぜる中、ジョンは母の足元の絨毯に座り込んだ。
「父上は、相変わらず息災にしていて?」
「……うん。父上は毎日、僕を膝に乗せて『お前だけが儂の可愛い息子だ』って肉をくれます。兄上たちの領地を全部取り上げて、僕にくれるって……。でも父上はいつも家臣を怒鳴り散らして、逆らう貴族がいると『全員縛り首だ!』って叫んで机を叩き割るんです」
ジョンは小さな拳をぎゅっと握った。
「父上は言います。『法律とは王の力だ。従わない奴は軍勢で叩き潰せばいい』って。……でも母上、僕にはそれが正しいとは思えないんです。ポワチエでの『愛の法廷』では、誰も怒鳴られていないのに、自分から頭を下げていました。……父上の言う『力』と、母上の言う『統治』は、一体何が違うのですか?」
その純粋な問いを聞いた瞬間――アリエノールの瞳に、深く鋭い知性の光が灯った。
剣を振るうことしか頭にない、血気盛んな上の兄たちとはまるで違う。末子のジョンが王位を継ぐことなど考えられないが――武力ではなく「法と統治の本質」に自ら気づき始めたこの愛息が、いずれ長男ヘンリーやリチャードを支える知恵袋となり、兄弟仲良くこの広大な帝国を治めてくれたなら、どれほど頼もしいだろうか――。
冷たい幽閉の檻の中、アリエノールは愛おしそうに我が子の頭をそっと撫で、慈しむように優しく微笑んだ。
七歳の僕が運んだ一個の砂糖菓子が、孤独な母の心を救い、そして母の微笑みが、僕の心に「力ではなく法で人を動かす」という統治の真理を植え付けた。
兄たちの相次ぐ早世によって、いずれ僕自身がその重すぎる王冠を戴く運命にあるとは、この時の母も僕も知る由もない。父の狂気と母の愛の狭間で、僕という特異な官僚王の魂は、冷たい石牢の暖炉の前で静かに育まれていったのである。




