第5話:愛の法廷と六歳の電卓小僧〜婚姻は契約不履行の免責条項ですよね!?〜
「真の愛において、婚姻関係は愛の言い訳にはなりませんわ」
実の母からこのとんでもない判決を聞かされたとき、当時六歳だった僕は、全身に電撃が走るような衝撃を受けた。
「なるほど! 婚姻とは単なる免責条項であり、人の感情すら契約と法でコントロールできるのか!」と。
……ええ、僕のこの歪みきったリアリズムの責任は、半分くらい間違いなく母上にあります。
――時は遡り、西暦一一七〇年代初頭。
南仏の温暖な陽光が、ポワチエ宮殿の大広間の白大理石を照らしていた。
三連の暖炉の前、一段高い玉座で象牙の扇をパチンと鳴らしたのは、アキテーヌ女公爵にしてイングランド王妃――アリエノール・ダキテーヌであった。
夫ヘンリー二世が北方の政務に追われる中、彼女は生まれ故郷のポワトゥーで名高き『愛の法廷』を主宰していた。
「お、王妃様! ですが妻は神の前で永遠の愛を誓ったはずです! それなのに、あの若造の騎士に熱烈な詩を贈るなど――!」
膝をつき抗議する領主に対し、アリエノールは艶やかな微笑を浮かべた。
「殿方。婚姻とは家柄を守る『世俗の契約』に過ぎません。義務の中に情熱を縛るなど不可能ですわ。愛とは互いが自由意志で捧げ合うもの。したがって婚姻を理由に真の愛の独占は認められません」
「な、なんと……!?」
「妻が騎士の詩にときめくのは、あなたの怠慢の証拠ですわ。よって本法廷は求愛の詩を『宮廷風恋愛』と認めます。――ただし騎士殿! その愛、至高の奉仕として捧げなさい!」
判決が下るや、大広間は割れんばかりの歓声に包まれた。
フランス王ルイ七世をフッ飛ばし、ヘンリー二世との電撃再婚で巨大帝国を築いた女傑アリエノール。五十路を迎えてなお、その美貌と知性でヨーロッパ中を完璧に文化支配していた。
***
審理が一息ついた幕間、パタパタパタ……ジャララッ! と大理石を駆ける小さな足音と金属音が響いた。
「母上! 母上――ッ! 今の判例、完璧に記録いたしました!」
柱の陰から駆け寄ってきたのは、当時まだ六歳の末っ子――ジョンであった。
赤みを帯びた髪の少年は、背丈ほどもある羊皮紙の束を小脇に抱え、反対の腕には黒と白の市松模様に染め抜かれた布を抱え込んでいる。鼻の頭にインクをつけたまま、大理石の床へバッとその布――財務府で用いられる計算布を豪快に広げた。
さらに腰の革袋から真鍮製の計算コインをジャラリとぶちまけると、小さな指先を目にも留まらぬ猛スピードで滑らせ始める。シャカシャカ、カチャカチャ! 小気味よい金属音が広間に響き渡った。
「題して『愛の法廷三十一箇条・判例覚書』! ついでに名誉毀損の損害賠償額と、騎士殿が捧げる『至高の奉仕』の必要経費も試算済みです!」
ジョンは得意げに小さな胸を張ると、再びエシキエ布に視線を落とし、真鍮コインをチャキッと鳴らした。
「母上、法と数字って本当に素晴らしいですね! 人の心なんて曖昧で信用できない不確定要素です。でも規則と帳簿で縛れば、不条理な感情すら完璧にコントロールして支配できる!」
「『婚姻は愛の言い訳にならない』――要するに契約不履行の免責条項ですよね!? 条文と数字を突きつければ暴力を使わず論理で屈服させられます!」
「……あら」
アリエノールは目を瞬かせた。ロマンスを楽しむための優雅な文化を、この末っ子は「人間を支配する法と会計システム」として斜め上に解釈しているのだ。
「ふふ、まあ素敵! でもジョン、人の心は計算や条文だけで測れるものではありませんことよ?」
「いいや、母上は甘いです! 感情に頼るから争うんです。データと記録と条文こそが絶対です! 僕は将来、国中を帳簿と法律で完璧に管理してみせますからね!」
六歳の口から出た筋金入りの官僚宣言。後の世でマグナ・カルタと対峙する「法オタク」にして「財務チート」の萌芽がここにあった。
「ふふ、頼もしいこと。大きくなったら兄様たちの無駄遣いもビシッと取り締まってね」
「はい! 一ペンスの狂いもなく計算いたします!」
***
だが、穏やかな時間は続かなかった。
法廷の後、アリエノールは私室のテラスで密書を冷たく見つめていた。
広大なアンジュー帝国。本来ならば、息子たちへの領土継承はすでに整然と取り決められていたはずであった。
長男の若ヘンリーにはイングランド、ノルマンディー、アンジュー。
次男のリチャードには母の故郷たるアキテーヌ公国。
三男のジェフリーにはブルターニュ。
だが、夫ヘンリー二世はそのすべてを歪めていた。
名ばかりの共同王に祭り上げた長男に実権を一切与えず、さらに愛妾ロザムンド・クリフォードを公然と溺愛。ウッドストックの迷宮離宮に囲い込み、公式の宴席にまで同伴させる明白な侮辱を重ねていたのだ。
「アキテーヌの自立も、息子たちの将来も、私の誇りも……すべて踏みにじる気ですわね、アンリ」
アリエノールは密書を握り潰し、冷ややかに唇を吊り上げた。
「あの野獣、飼い主の手綱を完全に振り払う気なら……相応の罰を受けていただくまでですわ」
その時であった。
重厚な扉が――ドカンッ――! と乱暴に蹴破られた。
「母上ッ! もう我慢の限界です!」
僕が床でせっせと「愛の損益分岐点」を計算していたその裏で、母と兄たちはすでに、父という巨大な野獣を仕留めるための「大反乱」という名の特大プロジェクトを立ち上げていたのだ。
家族全員で父親をボコボコにしに行く――そんな狂気に満ちた泥沼劇の幕が、いま上がろうとしていた。




