第4話:一文無しの最強騎士を買い叩け!〜母が黄金で買った生涯の盾〜
人の忠誠心を「格安の買い物」と笑ってのけた母の伝説を、僕は生涯忘れることができない。
中世最強の騎士ウィリアム・マーシャル――後に英国史上最も偉大な騎士と称えられ、死ぬまで我がプランタジネット家を支え続けた「生ける伝説」である。
その男を、母はなんと黄金の山ひとつで「底値買い」したのだ。
――時は遡り、西暦一一六八年、初夏。
南仏ポワトゥーの鬱蒼とした森を抜ける街道で、若き騎士ウィリアム・マーシャルは馬車の馬尻を剣の平で激しく叩いた。
「アリエノール様! ここは俺が一歩も通しません! 早くお逃げをッ!」
巡幸中のアリエノールを乗せた豪奢な馬車が、林道を疾風のごとく駆け抜けていく。
当時二十四歳のマーシャルは、絵に描いたような「一文無しの貧乏騎士」であった。
イングランド貴族の四男坊で領地も財産もなく、武術大会で無類の強さを誇りながらも、お人好しすぎて賞金をすべて仲間に奢ってしまい常に財布は空っぽ。見かねた叔父の護衛隊に拾われたばかりの新入りだった。
だが、その巡幸の隊列を、反乱を企むリュジニャン一族の騎兵隊が急襲したのだ。
指揮官である叔父が討死し、護衛部隊が瓦解する中、マーシャルは甲冑の上着を着る暇もなく、革鎧のまま単身で敵の大軍の前に立ちはだかった。
「通さんと言ったはずだァッ!」
咆哮とともに振るわれた長剣が、迫る敵兵を次々と薙ぎ倒す。
狭い林道を、怪力と超絶の剣技で完全に塞ぎ、一騎当千の鬼神となって時間を稼ぎ続けた。
やがて丘の上の堅牢な城砦へ馬車が滑り込み、跳ね橋が引き上げられる。
――その瞬間を見届けたマーシャルの太ももを、背後から突き出された卑劣な長槍が深々と刺し貫いた。
「ぐあああっ……!」
重傷を負い、泥濘の中に崩れ落ちたマーシャルは、そのまま敵の豚小屋へと放り込まれた。
***
それから数日後。
豚の異臭と高熱に浮かされ、死を覚悟していたマーシャルの耳に、突如として華麗なトランペットのファンファーレが轟いた。
「アキテーヌ女公にしてイングランド王妃、アリエノール・ダキテーヌ閣下からの使者である! ウィリアム・マーシャル殿の身代金を受け取れ!」
敵の屋敷の前へ運び込まれたのは、溢れんばかりの純金のコイン、銀の延べ棒、最高級の甲冑、そして名馬三頭。
あまりの巨額に目を白黒させて泡を吹く敵の領主から、マーシャルは丁重に救出されたのであった。
***
眩い陽光が差し込むポワチエ宮殿の大広間。
手厚い治療を受け、真新しい絹の衣服を着せられたマーシャルは、恐縮のあまり大理石の床に額を擦り付けていた。
「ア、アリエノール様……! 俺のような名もない貧乏騎士に、あのような破格の黄金を……! 一生働いてもお返しできません!」
一段高い玉座から、アリエノールはふわりと立ち上がり、平伏するマーシャルの前に歩み寄った。
そして、傷だらけの無骨な手をそっと両手で包み込み、鈴を転がすように微笑んだ。
「――まあ、素敵」
爛漫たるその微笑みに、マーシャルは息を呑んだ。
「名もない騎士が、鎧も着けずに敵の大軍へ立ち向かい、わたくしの命を救ってくださったのよ? そんな尊い魂に、黄金いくら積んだとて釣り合うはずがありませんわ」
アリエノールは床に額をつける騎士を見下ろし、悪戯っぽく優雅に微笑んだ。
「これは浪費ではないのよ。わたくしは黄金で、生涯裏切らぬ『命を捧げる最強の盾』を、この上なく安値で買い叩いたのですわ」
心を買うには、相手が自分の命につけている値打ち以上の価値を差し出すこと――それこそが、人の上に立つ者の「至高の契約」であった。
床に伏したマーシャルの目からは、熱い涙がボロボロと溢れ出していた。
「アリエノール様……! このウィリアム・マーシャル、この命尽きるその瞬間まで、貴方様とプランタジネット家のためにこの剣を捧げ抜くことを神に誓います!」
床に額を打ちつけ、魂の底から生涯の忠誠を誓う若き巨漢の騎士。
母の圧倒的な人心掌握術によって、「契約」という名の見えない鎖が、若き怪物の魂を永遠に縛り上げた瞬間であった。
母上、美しすぎます。そして計算高すぎます。
当時まだ一歳で、海の向こう――遠くイングランドの揺りかごの中にいた僕には、知る由もない出来事であった。
相手に「己の命以上の価値」を感じさせて魂ごと縛り上げる――これこそが、我が母アリエノールによる人心掌握の極意であり、血も涙もない「至高の契約」であった。
そして数十年後。
すべてを失い、全貴族から見放された孤独な僕の前に、最後の最後まで立ち塞がって国と僕を守り抜いてくれる『不落の盾』がこの男になろうとは――。
空っぽの木皿から始まった僕の人生の最大の布石は、すでにこの時、海の向こうで母の微笑みによって打たれていたのである。




