第3話:生まれた瞬間「お前の土地はない」と宣告された件
生まれた瞬間に「お前の土地はない」と父親から満面の笑みで宣告された赤ん坊が、この世のどこにいるだろうか。
中世の貴族社会において「土地がない」とは、すなわち「領民ゼロ・家臣ゼロ・経済基盤ゼロ」を意味する死刑宣告に等しい。
だから僕の人生は、生まれ落ちた時からマイナスからのスタートだったのである。
――時は僕が母の腹に宿っていた頃。
アンジュー帝国の宮廷の中庭から、けたたましい怒号が上がっていた。
「俺は将来のイングランド王だぞ! ここは俺のノルマンディーだ、アキテーヌの野蛮人は踏み込んでくるな!」
「うるさい! 強い奴が総取りだ! 兄上をぶっ倒してアンジューごと奪ってやる!」
「脳筋だと統治なんてできないぞ、頭脳にすぐれる自分がすべて治めるべきだ!」
打ち合う木剣の鈍い音。蹴り上げられる泥。ちぎれた上着の切れ端が宙を舞う。
長男ヘンリー、次男リチャード、三男ジェフリー――この三頭の幼き野獣が、アンジュー帝国という特大ケーキを巡って文字通り血みどろの喧嘩を繰り広げていた。
一方、宮殿の執務室では――国王ヘンリー二世が、羊皮紙の束を机に叩きつけながら怒鳴り散らしていた。
「男たるもの、自分の領地は腕力と気迫で守り抜くものだ! 諸侯の機嫌や小細工なんぞ気にして統治ができるか!」
「まあ、筋肉と直感だけで帝国が回ると本気でお思いなの? あきれた筋肉ダルマですこと!」
アリエノールは涼やかに扇子をパチンと鳴らし、執務机を鋭く指差した。
「長男にイングランドとノルマンディー、次男にアキテーヌ、三男にブルターニュ……特大のケーキを全部切り分けてお皿に載せたら、領地の分け前で骨肉の争いをするのが目に見えていますわ!」
「喧嘩上等! 奪い合って勝った奴が治めればいい! それがアンジューの流儀だ!」
「あきれた。ではせめて、諸侯たちとの誓約書くらいはお読みになって? 力づくで縛っただけの忠誠ほど、脆いものはありませんわ――」
「読まん! 文字が多すぎる!」
洗練された政治と人心の機微を見通すアリエノールと、野生と直感で突っ走るヘンリー二世の激しい口論は宮廷の日常茶飯事であった。
そんな騒がしい帝国に、新たな産声が響いたのは――西暦一一六六年一二月二四日。
粉雪の舞うオックスフォード、ボーモント宮殿でのことであった。
「生まれました! 玉のような男児にございます!」
産婆が柔らかな白布に包んで抱き寄せてきた赤ん坊。
寝台のアリエノールは、額の汗をぬぐいながら、愛おしそうに小さな頬へ指を添えた。
「まあ……なんて愛らしい子。クリスマスイブに生まれてくるなんて、神の祝福を受けた良い子ですわ」
「おお、我が息子よ! 名はジョンと名付けよう!」
泥まみれの狩猟服のまま駆け込んできたヘンリー二世は、無骨な手で恐る恐る赤ん坊を抱き上げた。
赤ん坊はぱちくりと澄んだ黒い瞳を開くと、父の赤い髭をきゅっと握りしめ、ふにゃりとあくびをした。
「ははっ、見ろアリエノール! この子はすでに何かを力強く掴み取ろうとしているぞ!」
「ええ、とても逞しい手ですわ。……ですがアンリ、この子のケーキはどうなさるおつもり?」
「む……」
アリエノールが小首をかしげると、ヘンリー二世は抱き上げた赤ん坊を見つめ、豪快に頭を掻いた。
「それがな……困ったことに、帝国のケーキは上の兄貴どもに全部配り終えちまった! イングランドもノルマンディーもアキテーヌも、ひとかけらも残っておらん!」
「あらまあ。では、この子の前には?」
「すまんな、我が可愛いジョン! お前の前には、何一つ載っていない空っぽの木皿しかない! お前は『無地領公』だ!」
父親ならではの豪快な冗談に、居並ぶ側近たちからもどっと温かな笑いが起きた。
領地がない――それは封建社会の貴族にとって、身に纏う鎧も、従える家臣も持たぬ「完全なゼロ」を意味する。
だが、抱き上げられた赤ん坊のジョンは、泣き叫ぶどころか、ケロリと涼しい顔。
父の腕の中で気持ちよさそうに寝息を立て始めたのだ。
「ふふっ……頼もしいこと。物怖じしない良い子ですわ」
アリエノールは微笑みながら赤ん坊を引き取り、温かな胸に抱きしめた。
しかし――その蜂蜜色の瞳の奥に、ふと怜悧な光が宿る。
(無地領公……)
土地を持たず、兄たちの分け前にも預かれず、誇り高き獅子の群れで育つ末の男児。
暴力と腕力でケーキを奪い合う野獣たちの中で、持たざるこの子が生き抜くには何が必要か。
「大丈夫よ、ジョン。土地などなくとも、あなたにはこの母が最高の武器を授けてあげますわ」
母の腕の中で、赤ん坊はすやすやと小さな寝息を立てる。
窓の外では、聖夜を告げる教会の鐘が遠く厳かに鳴り響いていた。
父上、笑い事じゃありません。初期資産ゼロからのスタートはあまりにも理不尽すぎます。
兄たちが領地という名のケーキを巡って血みどろの殺し合いをする中、
後にイングランド全土を書類と法で縛り上げ、貴族たちを恐怖のどん底に叩き落とすことになる「最悪の愚王」の奇妙な人生は、この空っぽの木皿から始まったのである――!




