第2話:若き野獣と電撃再婚〜前夫のフランス王がワインを噴射して悶絶した日〜
愛と契約のスピード違反にもほどがある。
電撃離婚からわずか八週間、クーリングオフ期間すら完全に無視した母の電撃再婚に、ヨーロッパ中の法学者と教会関係者は泡を吹いて卒倒した。
だが、一番哀れだったのは間違いなく、喉を潤す聖なるワインを部屋中にぶちまけた前夫――フランス国王ルイ七世である。
――時は少し遡る。
ポワチエから北のアンジューへ向けて放たれた手紙は、極めて簡潔にして刺激的な「求婚状」であった。
『親愛なるアンリ。私は自由になりました。アキテーヌの女公と、この豊穣なる大地を手に入れたいなら――死ぬ気で私の寝所まで馬を走らせなさい』
アリエノールがその男――アンジュー伯アンリと最初に出会ったのは、離婚の数ヶ月前、パリの宮廷でのことだ。
燃えるような赤毛に、鍛え上げられた頑強な肉体。獲物を狙う鷹のように鋭い琥珀色の眼光。
当時まだ十九歳だったその若者は、陰気なフランス宮廷の腑抜けた貴族たちの中で、一人だけ異次元の野心と生命力を放っていた。
大広間の片隅で、アンリは王妃であったアリエノールを真っ直ぐに見据え、不遜な笑みを浮かべてこう囁いたのだ。
『――あんたのような輝く宝石が、あの祈るだけの木偶の坊の隣で埃を被っているのは、神への冒涜だぜ』
恐れを知らぬ若き猛獣の眼差し。
アリエノールは確信していた。この男なら自分を退屈させない。アキテーヌの巨富を背負うだけの度量がある、と。
そして手紙がアンジューへ届いてから、わずか数日後のことである。
ポワチエ宮殿の城門を、地響きのような猛烈な馬蹄の轟きが揺るがした。
護衛も連れず、昼夜兼行で馬を飛ばしてきた一騎の若武者が、城門を蹴破るような勢いで大広間へと乱入してきたのだ。
「アリエノールッ!」
肩で荒い息をつくアンリであった。
革鎧には泥が跳ね、汗に濡れた赤毛が額に張り付いている。だがその双眸は、獲物を仕留めんとする猛獣のように爛々と燃え盛っていた。
階段の上から見下ろしたアリエノールは、くすりと喉を鳴らして笑った。
「まあ、素敵。本当にたった一人で飛んでいらしたのね、アンリ?」
「当たり前だ! あんたの手紙を受け取って、チンタラ歩いていられる男がこの世のどこにいる!」
アンリは大股で階段を駆け上がり、アリエノールの細い腰を力任せに抱き寄せた。
立ち上る男の汗と革、そして馬の強烈な匂い。前夫ルイの生温い白檀の香煙とは根本から異なる、脈打つ野生の熱気。
アンリの荒い息が、アリエノールの白い項を熱く掠める。
「俺はノルマンディー公であり、アンジュー伯だ。そしていずれ、ドーバー海峡の向こう――イングランドの王冠もこの手で力づくで奪い取る」
アンリは獰猛な笑みを浮かべ、耳元で低く唸るように囁いた。
「あんたのその広大な大地と、その極上の美貌……全部俺に寄越しな。俺の帝国の、唯一の女王にしてやる」
「いい度胸ですこと。でもアンリ、勘違いなさらないで? あなたのアキテーヌになるのではなく、私のアキテーヌがあなたを王にしてあげるのですわ」
「ハッ! 言うじゃねえか、最高の悪女め!」
二人は貪り合うように情熱的な口づけを交わした。
ボージュンシーでの離婚成立から、わずか八週間後の電撃再婚であった。
***
その数日後。
パリのルーヴル宮殿で、ルイ七世は質素な修道服をまとい、厳かに夕暮れの祈りを捧げていた。
祈りを終え、喉を潤すべく、銀の杯に注がれた葡萄酒を静かに口に含んだ瞬間――。
祈祷室の扉がけたたましい音を立てて開き、顔面蒼白の伝令が床へ転がり込んできた。
「き、急報! ポワチエより急報でございます!」
「これこれ、騒がしいぞ。祈りの時間を乱すでない……」
「アリエノール前王妃様が、アンジュー伯アンリ殿と電撃再婚いたしましたァァッ!」
ぶはァッ――!?
盛大な破裂音とともに、ルイ七世の口から深紅の葡萄酒が豪快に噴射された。
祈祷室の祭壇へ、神父の顔面へ、そして高価な聖書の上へと、美しい赤い霧が降り注ぐ。
「げほっ! ごほっ……! な、なんだとォォォッ!? よりによって、あの野蛮なアンリだとォ!?」
側近の神父や貴族たちも、泡を吹いて卒倒しかけている。
「へ、陛下! アンジュー伯領、ノルマンディー公領、そしてアキテーヌ公領が一つに合体いたしました! フランス全土の半分以上が、一瞬にして奴らの支配下に落ちたことになります! しかもアンリ殿は、イングランド王位の正当な継承権を持っております!」
「ま、まさか……あやつ、最初からこれが狙いで余と離婚したのか……!? 謀ったなアリエノール! おのれ女狐めがァァッ……! い、痛い、胃が、胃が引き千切れるゥゥゥッ!!」
ルイ七世は祭壇の前で腹を抱えて床を転げ回り、神父たちの悲鳴が大聖堂まで木霊した。
「祈らねば……いや誰か胃薬を! 神よ、胃に奇跡の癒やしをォォォッ!!」
元夫の断末魔のような絶叫など、爽快な南風に乗って吹き飛ぶばかり。
ポワチエの燦々たる青空の下、アリエノールは愛馬に跨がり、隣を走る若き野獣アンリとともに、爛漫たる高笑いを響かせていた。
「さあ行きましょう、アンリ! 私たち二人の、新しい時代の夜明けへ!」
フランス国土の半分以上と、ボルドーの莫大なワイン税収が、たった二ヶ月で手元から蒸発したのだ。
後に国家財政の帳簿を預かり、連日連夜の胃痛にのたうち回ることになる息子の僕としては、前国王ルイ七世のこのワイン噴射と胃痛には、心からの同情を禁じ得ない。
だが、父と母の野望が合体して誕生したこの超巨大国家「アンジュー帝国」こそが、後に僕たち兄弟を骨肉の泥沼へ引きずり込む元凶となるのであった。




