第1話:修道士と結婚した覚えはありません!〜フランス王をフッて国家予算級の領地を持ち逃げした母〜
中世最強にして最狂と恐れられた母を持った息子の胃痛を、後世の歴史家どもは少しでも想像したことがあるのだろうか。
すべての悲劇――いや、僕の果てしなき泥沼は、母がフランス国王を華麗にフッ飛ばしたあの日から始まった。
――時は遡り、一一五二年三月、ボージュンシー大聖堂。
「あきれました。わたくし、フランス国王陛下と結婚したつもりでしたのに、まさか修道士様とお見合いさせられていたなんて思いもしませんでしたわ!」
静寂に包まれた厳かな大聖堂に、鈴を転がすような澄んだ高笑いが響き渡った。
宣言されたばかりの「婚姻無効」――すなわち離婚の裁定書。
アリエノール・ダキテーヌはそれを、宝石の輝く豪奢な指先でパチンと軽やかに弾いてみせた。
今年で三十歳。
南仏アキテーヌの陽光を一身に浴びて咲き誇るその美貌は、まさに爛漫たる大輪の薔薇。冷酷なまでの気品と甘やかな色香を湛えた微笑みに、並み居る聖職者たちも思わず息を呑む。
彼女は可憐に小首を傾げ、フランス国王ルイ七世との十五年に及ぶ退屈極まる結婚生活に、自ら盛大な終止符を打ったのだ。
「まあ、ルイ様もせいぜいせいせいなさるとよろしいわ。これで心置きなく、朝から晩まで神に祈りを捧げ、断食に励めますものね? ……ねえ、大司教様?」
「ひっ……! ア、アリエノール様、滅多なことをお口になさいますな……!」
大司教や高位貴族たちは、血の気の引いた顔で青ざめていた。
彼女を失うということは、単に気位の高い王妃を一人手放すことではない。
彼女がフランス王室にもたらしていたのは、南仏アキテーヌ公国――フランス全土のおよそ三分の一を占める、ヨーロッパ屈指の広大で肥沃な超巨大領地なのだ。
それが今、丸ごとフランス王家の手から滑り落ちようとしていた。
だが、当のアリエノールにとって、そんなパリの男たちの青ざめた台所事情など知ったことではない。
豪奢な絹のドレスを翻し、彼女は晴れやかな足取りで春の光の中へ踏み出した。
「急ぎなさい。パリの男どもが我に返る前に、ポワトゥーへ駆け抜けますよ」
待ち受けていた天蓋付きの豪奢な馬車へ滑り込むなり、アリエノールは御者へ鋭く命じた。
四頭立ての駿馬が嘶き、石畳を蹴って猛烈な勢いで南へと疾走を始める。
激しく揺れる車内で、アリエノールはふうと優雅に吐息をこぼし、孔雀の羽をあしらった扇子を広げた。
思い返せば、あの堅物と過ごした十五年間は、およそ喜劇のような苦行であった。
聖職者崩れの国王ルイ七世――。
胸元の開いた南仏風のドレスを着て微笑みかければ、「神よ、淫蕩な誘惑から救いたまえ!」と叫んで狂ったように聖水を振りかけてきた引き攣った顔。
遠征に華を添えようと、山のような衣装と上等なボルドーワインを荷車に満載すれば、帳簿を見るなり「兵糧より化粧品の方が多いとは何事だ!」と胃を押さえて床に蹲っていた姿。
挙句の果てには、シリアの要衝アンティオキアで、実の叔父レーモンと故郷の詩を語り合っていただけで、猛烈な疑心暗鬼に錯乱し、真夜中に兵を動員して妻を連行しようと狼狽していたあの引き攣った瞳。
――どこをどう切り取っても、男としての色気も度量もありはしなかった。
あの生真面目なだけの修道士王には、南仏の太陽はあまりに眩しすぎたのだ。
「男はやっぱり、少々野性味があって、己の欲望に忠実でないと退屈ですわ」
くすりと冷ややかな笑みをこぼし、アリエノールは車窓の外を見やる。
手に入れたのは、ヨーロッパで最も美しく、最も豊かな大地を意のままにする、三十歳の完全なる自由。
だが――その眩すぎる自由と富を、周囲のハイエナたちが指をくわえて見逃すはずもなかった。
本拠地ポワトゥーへの帰路、深い森に挟まれた隘路へと差し掛かったその時である。
街道の木立から、突如として無数の怒号と馬蹄の地響きが轟いた。
「アリエノール女公を逃すなッ! 生け捕りにせよ!」
「馬車を取り囲め! 我が城へ連れ帰り、強行結婚さえ結んでしまえば、アキテーヌの富は我らのものだッ!」
街道の行く手を塞いだのは、ブロワ伯ティボー五世。
さらに背後からは、アンジュー伯の弟、ジョフロワが放った騎兵が砂煙を上げて迫っていた。
離婚によって後ろ盾を失った若き女領主を狙い、隣国の領主たちが電撃的な略奪婚を仕掛けてきたのだ。
「奇襲だ! 敵の伏兵! アリエノール様をお護りせよッ!」
護衛隊長が血相を変えて剣を抜き、青ざめた声を張り上げる。
だが、襲撃の混乱の中、馬車のアリエノールは眉ひとつ動かさなかった。
彼女は静かに馬車のカーテンを跳ね上げると、冷徹な双眸で瞬時に敵の布陣を見定めた。
パチン――ッ!
扇子を鋭く打ち鳴らし、窓から護衛の騎士たちへ凛とした声で指示を飛ばす。
「狼狽えるでありません! 前方のブロワ伯は右に戦力を偏らせています。左の雑木林へ馬頭を向けなさい。隊列の薄い左翼を、楔の陣で一気に突き破るのです!」
「はっ、はッ!」
「それから後方のジョフロワ坊やの追っ手には――荷車に積んだボルドーの赤ワイン、あの樽の留め金をすべて叩き落として、坂道へ転がしなさいな!」
「えっ!? あ、あれは極上のヴィンテージ樽でございますぞ!?」
「惜しんでいる場合ですか! 飢えたハイエナどもには、極上の美酒を振る舞って差し上げるのよ!」
護衛兵が鉈で荷綱を断ち切ると、重厚なワイン樽が幾重にも唸りを上げて坂道を転がり落ちた。
街道の岩肌に激突した大樽が炸裂し、深紅の奔流が追っ手の先頭を呑み込む。
たちまち立ち込める濃厚な葡萄の香りと、ぬかるんだ深紅の泥に、軍馬が驚いて狂ったように棹立ちとなった。
前列が崩れ、後続がドミノ倒しのように折り重なって大混乱に陥る。
「突撃ィッ!」
その隙を見逃さず、護衛隊は左翼の薄い包囲網を一閃の下に突き破った。
疾風のごとく街道を駆け抜ける馬車の中から、アリエノールは扇子の隙間から冷ややかな視線を投げかける。
「ごきげんよう、欲張りな殿方がた。アキテーヌの果実を味わうには、少々お行儀が悪くてよ?」
鮮やかな機転で包囲網を蹴散らし、アリエノールの一行は数日後、本拠地たるポワチエの宮殿へと滑り込んだ。
重厚な鉄の城門が轟音を立てて閉ざされ、高い塔の上には、アキテーヌの獅子旗が誇らしげに翻る。
旅の埃にまみれたドレスの裾を払い、玉座の前に立ったアリエノールは、息つく間もなく家臣へ命じた。
「早馬を用意なさい。北へ――アンジューへ飛ばすのです」
護衛隊長が目を丸くして尋ねる。
「アンジューへ? まさか、街道で待ち伏せを仕掛けてきたジョフロワ殿へ、報復の宣戦布告状を送りつけるので?」
「いいえ」
アリエノールは唇の端を吊り上げ、魅惑的な笑みを浮かべた。
そして、豊満な胸元から一通の羊皮紙を取り出してみせたのだ。
そこにしたためられていたのは、宣戦布告などではなく――電撃の求婚状であった。
「手紙を渡す相手は、弟のジョフロワ坊やではないわ。――兄のほうよ。アンジュー伯アンリ!」
アンジュー伯アンリ。
後にイングランド国王ヘンリー二世となる男であり――。
そう、僕、ジョンにとっての『父親』となる猛獣である。
母上、よりによってそこに行く!?
しかも相手は十一歳も年下の、血気盛んな十九歳の若造である。
この美貌の母による乾坤一擲の電撃求婚が、後にヨーロッパ全土を呑み込む超巨大国家『アンジュー帝国』を生み出し――。
数十年後、僕という不憫な末っ子の胃に、盛大極まる穴を開ける大惨事の始まりだったのだ。




