第14話:「ロンドン市ごと売り払え!」〜狂乱の英雄リチャードと空っぽの金庫〜
「買い手さえ現れれば、ロンドン市ごと売り払ってやってもいいぞ!」――即位の初日に満面の笑みでそう言い放った兄リチャードは、間違いなく中世で一番派手で、一番迷惑な英雄であった。
国家予算三年分を一瞬で十字軍に溶かし、天文学的な請求書の山を残して旅立った筋肉ダルマのツケを、なぜ留守番の僕が払わねばならないのか。
胃痛でのたうち回る僕の前に現れたのは、後に僕の「唯一の理解者」となる、もう一人の実務の怪物であった。
――時は西暦一一八九年、秋。
ウェストミンスター寺院の丸天井に、数百本の蝋燭が燃えさかっていた。
戴冠式を終えて玉座に座すリチャード一世は、身の丈六尺を超える偉丈夫。鋼の肉体と燃えるような赤毛を誇るその威容は、まさに「武勇の権化」であった。
そもそも、なぜ次男であるはずのこの筋肉ダルマが王冠を被っているのか。
かつて父と共同王を務めていた長男のヘンリー若王が生きていれば……いや、あいつもトーナメント狂いで見栄っ張りなキラキラ脳筋だったから、どっちにしろ財政破綻していたに違いない。
だが、この次男はさらに桁が違った。長兄は『見栄と衣装』で小銭を散財する程度だったが、この次兄リチャードは『戦争』で国家予算を丸ごと消し炭にするリアル破壊神なのだ。
その長男が赤痢であっけなく病没し、策謀好きの三男ジェフリーも事故死した。
病気だ事故だと上の兄たちが勝手に世を去り、神の悪趣味な巡り合わせで、なぜか最後に残ってしまったのが「戦いしか能のない脳筋破壊神」と「電卓を叩くしか能のない僕」の二人だけだったという事実――それこそが、イングランド王国の命運を分けることになったのだ。
「諸侯よ!」
リチャードが口を開いた瞬間、寺院の石壁が震えた。
「退屈な王冠など要らん! 俺の目的はただひとつ、聖地エルサレムの奪還だ! 遠征の資金は全部自前で用意する。金になるものは全部売り払え! 城も、司教の椅子も、州長官の職もだ。買い手さえ現れれば、ロンドン市ごと売り払ってやってもいいぞ!」
豪快に言い放つと、リチャードは腰の革袋を引きちぎり、玉座の下でリュートを爪弾く専属の吟遊詩人たちへ放り投げた。ずっしりと重い金貨の革袋が石畳に落ち、鈍い金属音を立てる。
「おい詩人ども! 俺の武勇を世界中に歌い広めろ! 前払いだ、いくらでもくれてやる!」
大歓声が轟いた。「獅子心王万歳!」「これぞ真の英雄!」
諸侯たちは拳を振り上げ、熱狂した。誰一人、その金貨がどこから出ているのかを財政的に計算しようとはしなかった。
そして嵐は去った。
リチャードは宣言通りに実行した。城を売り、職を売り、船に金貨を満載して海の彼方へ消え去った。
あとに残されたのは、空っぽの国庫と、天文学的な数字の請求書の山だけであった。
***
西暦一一九〇年、冬、深夜。
ウェストミンスター宮殿の財務府執務室。
国家の最高財務機関であるはずのその部屋は、いまやゴーストタウンのように静まり返っていた。新王が金庫を空っぽにして十字軍へ旅立った瞬間、「もう金がないなら仕事にならん」と古参の財務官僚たちが一斉に匙を投げて逃げ出したからだ。
だが、国庫が空だからといって、国家の運営を止めるわけにはいかない。
目の下に真っ黒な隈を作ったジョンは、埃をかぶった羊皮紙の納税記録の山に囲まれ、机いっぱいに広げたエシキエ布の上で真鍮コインを猛スピードで滑らせていた。
「あの脳筋筋肉ダルマ兄貴めぇぇッ! 国家予算の三年分を一瞬で十字軍に溶かしやがって! ロンドンを売り払うだと!? 年間の関税収入と通行税の総額がどれほどか知っているのか! 父上が三十年かけて築いた北方の安全保障を、スコットランドへの小銭一万マルクで手放すバカがいるかッ!」
怒鳴りながらも、両手はコインを弾く手を止めない。
金庫は空だが、各地の州長官や領主どもが「王が金を持っていったから税金は払えん」と便乗して脱税しているはずなのだ。それを炙り出さねば国が滅ぶ。
その瞬間、胃の奥からじくじくと激痛が這い上がってきた。机に額をぶつける。
「なぜ僕があの筋肉ダルマのツケを払わなきゃならないんだぁぁッ!」
「殿下。計算の手腕は見事ですが、お言葉遣いが少々下品でございます」
冷えた声が、入り口から静かに落ちてきた。
扉の前に、長身の聖職者が立っていた。剃髪した頭、鷲鼻、一切の感情を挟まぬ鋼のような双眸。
「……誰だ、お前。役人は全員逃げ出したはずだが」
「ヒューバート・ウォルターと申します。本日付でリチャード陛下より、財務府補佐の辞令を賜りました」
男は深々と頭を垂れ、抱えていた公文書の山をどさりと机に置いた。
「リチャード陛下がシチリアで徴発された軍船の借用証書、軍糧の調達手形……それに、『遠征用純金製テント留め具一式、三千マルク』および『専属吟遊詩人三十名の前払い契約金、五千マルク』。合計三万四千マルク分の請求書でございます」
「…………純金製のテント留め具。吟遊詩人が三十名」
「はい」
「払えるかぁぁッ! この財務府の金庫を見ろ、残高ゼロペンスだぞ! 本日をもってイングランド王国は破産いたしました! 解散ッ!」
「解散とはいかないかと存じますが」
ウォルターは動じない。その鋼の双眸が、ジョンの手元の羊皮紙と、エシキエ布の上で正確に並べられた真鍮コインに止まった。
「……殿下、これは何でございますか?」
「見ればわかるだろ! 諸侯どもの『金がない』という嘘を暴くための、『エクセカー監査対照録』だ! 各州長官の自己申告額と、過去五年間の関税記録・収穫現物台帳を突き合わせて、未納や過少申告を炙り出しているんだ。ほら見ろ、ヨークシャーの長官だけで、二千マルクも誤魔化していやがる!」
ウォルターの双眸が、かすかに見開かれた。
彼は無言で羊皮紙を引き寄せ、そこに刻まれた数字の交差照合を指でなぞった。
「……素晴らしい。各領地の申告額と現物記録を多重照合し、帳簿の歪みをあぶり出す……。実に美しく、合理的です。これほど精緻な財政管理の体系は、先代ヘンリー二世陛下の御代にも存在しませんでした」
「……お前、わかるのか。この表の美しさが」
「当然でございます。数字と記録こそが、国家という巨大な建築物を支える唯一の骨組みでございますから。……殿下、この監査表を使えば、隠された未納金を合法的にすべて回収できます。あの請求書、払えますぞ」
「……本当か!?」
英雄が神殿を破壊し、官僚が深夜にレンガを積み直す。
この夜、中世で最も孤独だった僕の前に現れたのは、僕と同じ言語を話すことができる、生涯でたった一人の「戦友」であった。
こうして、僕とウォルターによる、国家予算回復のための前代未聞の「残業地獄」が幕を開けたのである!




