第15話:英雄の飯代を誰が払ってると思ってるんだ!〜横領役人を数字で締め上げたら胃薬を没収された〜
「英雄の飯代を誰が払ってると思ってるんだ、この寄生虫どもがぁぁぁっ!」――世間が十字軍の武勇伝に酔いしれる中、僕がロンドンの青空へ向かって放ったこの絶叫こそ、全世界の経理・法務担当者の魂の叫びであった。
華やかに敵をなぎ倒す英雄のパン代を、深夜の残業で捻出する不憫な実務屋。
しかもその横には、僕の胃薬の購入費まで容赦なく予算削減する、無慈悲な怪物官僚が控えていたのである。
――時は西暦一一九〇年、冬から春。
ウェストミンスター宮殿の財務府執務室では、深夜を過ぎても蝋燭の下で二人の男がペンを走らせていた。
「王領地代の過少申告、および森林罰金の着服――合計千二百マルク。明白な背任横領でございます」
「よし、即座に差し押さえ令状を起草しろ! 過去五年分の追徴金を利子つきで一括請求だ! 渋るなら家畜も領地も競売にかけると脅せ!」
「御意。すでに令状の雛形に金額を流し込み、財務府の赤蝋封印を押すばかりとなっております」
「素晴らしいぞ、ウォルター! 仕事が早い!」
ジョンは快哉を叫び、エシキエ布の上で真鍮のカウンターを猛スピードで滑らせた。
兄リチャードが残していった負債――純金製テント留め具や吟遊詩人三十名分の契約金を含む請求書の山。
破産の危機から、二人の共同実務マラソンはトップギアのまま続いていた。
武器は、ジョンが考案した『エクセカー監査対照録』、そして財務府秘伝の二大神器――「ハシバミの木の割符」と「財務台帳」の電撃照合だ。
偽造を防ぐ割符をバチリと突き合わせ、過去数十年分の納税データと交差照合。数字のわずかな矛盾をエシキエ布で瞬時に暴き出し、容赦ない赤インクで告発する。
さらに母アリエノールから授かった『密輸ノート』が凶悪な切れ味を添えていた。
「殿下、リンカンシャー州長官より『昨秋の洪水で小麦が全滅したため、地代を八割減免されたし』との嘆願書がございます」
「却下! 母上のノートには『リンカンシャーは小川の増水を大洪水と偽る』とある! 教区の日誌と突き合わせろ!」
「確認いたしました。日誌には『かつてなき秋晴れに恵まれ、豊作を神に感謝した』とございます」
「ハハッ! 真っ赤な大嘘じゃないか! 全額徴収に加え、虚偽申告の重罰金を上乗せしろ! 一エステルたりとも見逃すな!」
ジョンが数字の綻びを嗅ぎつけ、ウォルターが冷徹な法文で締め上げる。地方の役人たちは数字の檻に首を絞められ、青ざめて横領金を吐き出していった。
***
狂気の実務マラソンが始まって数ヶ月。テムズ川の氷が解け、春の風が吹き抜ける頃――。
チャリン。ジョンは最後の真鍮コインをシャッと滑らせた。
「……計算、終了! 未納金の回収、横領追徴金、地代の督促……兄貴の請求書を全額相殺し、今期国庫残高、プラス四千マルク!」
ジョンは両腕を天井へ突き上げた。
「勝ったぁぁぁぁぁっ! 僕らは破産を回避したぞ、ウォルター!」
「見事な手腕でございます、殿下。殿下の対照録が、王国を救い上げました」
ペンと帳簿の力だけで国家を救ったのだ。ようやく眠れる――そう安息の息を吐いた、その時だった。
ドッ、と外から地響きのような大歓声が湧き上がった。
宮殿前の広場から、太鼓とリュートの音色が流れ込んでくる。
「♪ 聞けや民草! 獅子心王リチャード様、シチリアの都メッシーナを電撃制圧〜! 黄金四万オンスを奪い取り、異教徒どもを蹴散らす真の英雄〜! 獅子心王万歳!」
「リチャード王万歳! 獅子心王万歳!」
民衆の熱狂的な合唱が響き渡る。
ジョンの顔から笑顔が消えた。両腕を上げたまま硬直する。こめかみに太い青筋が浮き上がった。
「…………は?」
呟くや否や、ジョンは窓枠へ突進し、ロンドンの青空へ魂の底から絶叫した。
「領土を二束三文で切り売りして海外へ遊びに行った無責任筋肉野郎が『真の英雄』で、深夜まで残業して国家破産を食い止めた僕が『ケチな留守番小僧』扱いだと!? あいつらが遠征先で食ってるパンも水も! 振り回してる剣も! ぜんぶ僕とウォルターが徹夜で計算して捻出した金なんだよぉぉぉっ! 英雄の飯代を誰が払ってると思ってるんだ、この寄生虫どもがぁぁぁっ!!」
だが、歓声にかき消され誰にも届かない。
ジョンはその場に崩れ落ち、胃を押さえて悶絶した。
「……ぐっ、胃が……胃がぁぁぁっ……! た、頼むウォルター、胃薬のハーブ湯をくれ……胃に穴が空いて死ぬ……」
「――殿下。ご所望の胃薬ですが、財政健全化の一環として、今月より購入費を全額削減いたしました」
「…………はい?」
ウォルターは懐から木製の椀を取り出し、湯気の立つ透明な液体を差し出した。
「白湯でお腹を温めて我慢なさってください」
「お前えぇぇぇぇっ! 僕の胃薬まで削るなぁぁぁっ!!」
「白湯は内臓を温め、血行を促進し、何より一エステルもかかりません。これ以上の胃薬はございません。白湯をすすりながらで結構ですので、こちらの道路補修費の水増し請求四百ページ、直ちにペンをお動かしください」
「鬼! 悪魔! 実務の怪物めぇぇぇっ!」
無味無臭の白湯をすすりながら、涙目で四百ページの請求書を精査する二十三歳のプリンス。
だが、この理不尽極まる残業地獄の中で、僕とウォルターは気づいてしまったのだ。
「あれ? この監査システムと法手続き……国中の貴族と王権をまるごと管理する、最強の国家システムに化けるんじゃないか?」と。
そう、後に大英帝国の根幹となる「近代官僚機構」の産声が、この深夜の白湯から上がろうとしていたのである。




