第13話:シノン城の悲劇〜父を愛するがゆえの冷徹な損切り(裏切り)と慟哭〜
愛する者を救うための完璧な計算が、その愛する者の心臓を真っ直ぐに突き刺すことがある。
後世の歴史家たちは、僕が病床の老父を冷酷に裏切った稀代の不孝者だと書き立てた。
だが――あの時、僕がどんな思いで降伏合意書に自らの名を刻み、そしてどれほどの地獄の業火に焼かれたのかを、知る者は誰もいなかった。
――時は西暦一一八九年、夏。
アンジュー地方の古都ル・マンは、紅蓮の炎と黒煙に包まれていた。
「退け! 王をお守りしろ! シノンへ急ぐのだ!」
忠臣ウィリアム・マーシャルの怒号が、爆ぜる火の粉を切り裂く。
かつて西ヨーロッパ全土を震え上がらせ、「アンジューの野獣」と恐れられたイングランド王ヘンリー二世は、いまや見る影もなく衰弱していた。
五十六歳。高熱に身体を焼かれ、持病の出血性潰瘍によって馬の鞍にすら跨がれない。
次男のリチャードとフランス王フィリップ二世の連合軍に追い詰められ、父祖代々の地を追われてシノン城へと落ち延びようとしていたのだ。
かつて父に反旗を翻した長男・若王ヘンリーは、一一八三年、反乱の最中に赤痢を患い二十八歳であっけなく病没した。そのわずか三年後には、三男ジェフリーもパリでの馬上槍試合の事故により、二十七歳の若さで世を去った。
あの大反乱で激しく争った兄たちが相次いで神の御許へ去ったことで、帝国の男子は次男リチャードと、末子のジョンだけになった。
これにより次男リチャードが筆頭王位継承者へ繰り上がったが――相次ぐ息子の死によって老いた父の心は深い喪失感に苛まれ、何一つ領地を持たぬ最愛の末子ジョンへの偏愛だけが、狂気的な執着へと変貌していった。「リチャードは次の王になるのだから、アキテーヌをジョンに譲れ」と無理な要求を突きつけたのだ。
母の領地を奪われまいとするリチャードは激怒し、フランス王と結んで父へ最後の叛旗を翻したのである。
「……リチャードめ……アリエノールめ……! 余のすべてを奪わねば気が済まぬのか……!」
輿の中で血を吐きながら、老王は喘ぐ。
だが――激痛に歪むヘンリー二世の胸の奥底に、たった一つだけ消えない灯火があった。
「……だが、ジョンがいる……。兄たちが去り、余の愛を一身に注いだジョンだけは……余を裏切っておらぬ……」
四面楚歌に陥った老王の、最後の生への執着であり、唯一の心の支えであった。
***
一方、アンジュー近郊の宿営地。
二十二歳になったジョンは、天幕の奥で一人、擦り切れた『密輸ノート』を前に激しく脂汗を流していた。
「父上の残存兵力、手元の近衛兵わずか数百……。リチャード兄上とフランス王の連合軍、およそ四千。戦力比は十倍以上……。このまま戦闘が継続した場合の死傷者予測、数千人。主要城塞の陥落確率、九十五パーセント……」
羽ペンを持つジョンの指先が、カタカタと激しく震えていた。
ジョンは父を憎んでなどいなかった。むしろ、不遇な自分を誰よりも愛し、庇護し続けてくれた父に、誰よりも深い感謝と愛着を抱いていたのだ。
だからこそ――残酷な計算式が、ジョンの胃袋を鉛のように締め上げていた。
「若王兄上とジェフリー兄上が亡くなって以来、父上の執着は狂気の域に達していた……。何一つ持たない僕のために、リチャード兄上のアキテーヌを奪おうと意地を張り、そのせいで帝国が真っ二つに割れてしまった……。父上が数百の兵になっても意地で戦いをやめないのは、僕のためだ。僕に領土を残そうと、最後の希望を捨てられないからだ……!」
父の命を救い、無意味な討ち死にを止めさせる方法は、たった一つしかない。
「僕が……反乱側の名簿に名を連ねるんだ。僕自身が講和側に回れば、父上は僕のために戦い続ける大義を完全に失う。意地を捨てて講和を受け入れ、王位を退いて治療に専念してくれれば、命だけは絶対に助かる……!」
それは、愛する父を生かすための、冷徹極まりない損切りの計算であった。
「父上を安らかに休ませるためなら、裏切り者と呼ばれたって構わない……!」
ジョンは涙を噛み殺し、震える手で降伏合意書に自らの名を署名した。
***
西暦一一八九年七月四日、コロンビエの平原。
豪雨が降り注ぐ中、担架に乗せられたヘンリー二世は、屈辱的な降伏条約に署名した。
すべてを奪われた老王であったが、最後の王としての矜持を胸に、かすれた声を絞り出した。
「……余に背いて反乱に加担した者たちの名簿を渡せ。誰を赦免すべきか、余自らの目で確認する」
差し出された羊皮紙を震える手で受け取る。
豪雨に濡れる羊皮紙の上、その最上段に記されていた筆頭の名は――。
『ジョン・プランタジネット(アイルランド卿、王の末子)』
「…………なんだと?」
時間が、止まった。
ヘンリー二世の瞳から、すうっと光が消えていく。
「ジョン……? 余の……我が可愛いジョンが……余を……?」
自分を愛し、共にいてくれると信じて疑わなかった最愛の息子の名。
「ぐっ……があああああああっ!!」
老王の口から、引き裂かれた獣のような絶叫が迸った。
心臓が破裂せんばかりの激痛。ヘンリー二世は名簿を握りつぶし、天を仰いで虚ろな笑いを漏らした。
「もう……よい。余には、何一つ残っておらん。……すべてが、終わったのだ」
シノン城へと担ぎ込まれたヘンリー二世は、二度と意識を取り戻すことはなかった。
七月六日、西欧の巨人は、息を引き取った。
***
シノン城の礼拝堂。
冷たい石畳の上に横たわる父の遺体の前に、ジョンは崩れ落ちていた。
「父上……? 父上……っ!」
遺体に縋り付き、冷たくなった無骨な手を握りしめる。
戦争を終わらせ、父の命を救うための計算だった。
それなのに――自分の署名が、最愛の父の命を奪ってしまったのだ。
「うわああああっ! 父上! 許してください、父上ぇぇぇッ!」
静まり返った礼拝堂に、二十二歳の青年の血を吐くような慟哭が木霊する。
かつて幼き日、父が自分に与えようとした因縁の三城――その筆頭たるシノン城で、父を殺してしまったという消えない呪い。
計算で救おうとした父を、計算によって殺してしまったという、一生消えない絶対のトラウマ。
この日以来、僕の胃には恒常的な激痛が宿り、他人の感情を信じることが完全にできなくなった。
だが――悲嘆に暮れる暇など、一秒も与えられなかった。
長男亡きいま、父の死によって王冠を掴んだのは、あの金遣いが荒く戦いしか能のない脳筋の怪物――兄リチャード「獅子心王」だったのである!




