第12話:若気の至り!アイルランド髭引っ張り大炎上〜泥水で誓った近代官僚の意地〜
正論で人を殴ると、国が一つ丸ごと大炎上する――これこそが、十八歳の僕が人生で最初に学んだ、痛恨の黒歴史である。
良かれと思って持ち込んだ衛生基準と成文法が、まさか「族長の髭を引っ張った」という些細な接触ひとつで、島中を大炎上させてしまうとは夢にも思わなかった。
――時は西暦一一八五年、春。
アイリッシュ海を渡る巨大な軍船の舳先で、十八歳のジョンは背後の船団を見渡していた。
父王ヘンリー二世から与えられた三百隻の船団と精鋭部隊。
名目は「アイルランド卿」としての現地親政。部族抗争が続く未開の島に、近代的な秩序をもたらすための初陣であった。
胸元には、七歳の日に母アリエノールから託され、十一年にわたり書き継いできた飴色山羊革の『密輸ノート』が大切に収められている。
「部族長ごとの私刑を禁じ、成文法による公正な裁判所を設置する。不透明なみかじめ料を廃止し、透明な税率台帳で民の負担を平準化する……。これさえ敷けば、無駄な血の報復は消えるはずだ」
武力で威圧した父や兄たちとは違う。自分は「法と制度」によって理想の社会を築いてみせる――若き日の彼には、純粋な使命感があった。
だが――ジョンはまだ、母が語った最大の教訓――「法や制度を動かすのは、感情を持った生身の人間である」という真理を、骨の髄までは理解していなかった。
***
軍船がウォーターフォード港に接岸すると、波止場には有力部族のゲール諸侯たちが集まっていた。
敵意はない。新たな領主を迎えるため、古来の最高の正装で出迎えたのだ。
だが、タラップを降りたジョンの思考回路は、彼らの姿を見た瞬間に激しく軋んだ。
胸元まで届くほど長く伸ばされ、複雑に編み込まれた「巨大な顎髭」。
マンスターの大首領が、友愛と忠誠の証である「平和の口づけ」を交わそうと歩み寄ってくる。
「ようこそアイルランドへ、若き君主よ。我らゲールの同胞は――」
「待ってください。まず、その前近代的な装いと衛生観念を改めるのが先決です」
ジョンの口から飛び出したのは、あまりにも冷徹な正論であった。
「僕はこの島に、成文法と公衆衛生を敷きに来ました。胸元まで伸びたその顎髭は白兵戦での掴みどころとなり、シラミの温床で極めて非合理的です。直ちに切り揃えていただきたい」
「……な、何だと?」
大首領の顔から血の気が引く。
ケルトの伝統において、編み込まれた顎髭は「命よりも重い名誉と尊厳の象徴」。
だが、狂気的な合理主義者であるジョンは、凍りついた空気に気づくどころか、懐から真鍮の定規を取り出した。
「規定の長さは顎下三インチ以内です。ほら、ちょっと定規を当てさせて――」
大真面目な顔で長さを測ろうとしたその時――不用意に伸ばしたジョンの指先が、大首領の編み込み髭をキュッと引っ張ってしまったのである。
パキリ、と何かが砕け散る音が港に響いた。
***
その夜、アイルランド全土の丘から狼煙が一斉に立ち上った。
長年互いの血をすすり合ってきたゲール諸部族が、「名誉を汚された怒り」という激情によって一夜にして大同団結を果たしたのだ。
「全ゲール戦士よ、立て! あの青二才を海へ叩き落とせ!」
怒涛の軍勢となって押し寄せる部族軍。
だが、悲劇は戦闘だけではなかった。
ジョンが善意で持ち込んだ「成文法」や「税率台帳」は、牛の頭数で賠償を決める不透明な部族取引の前で、ことごとく鼻で笑われ泥に踏みにじられたのだ。
「牛の頭数などという曖昧な慣習を許すから争いが絶えないんだ! なぜ王の統一銀貨で公正に取引しないんだ!?」
叫びは虚しく消え去った。
さらに底なしの湿地帯へと誘い込まれ、内陸の部族抗争に巻き込まれた部隊は、補給を絶たれて立ち往生する。
(内陸の泥沼に付き合ったのが計算違いだった……! 支配すべきは海だ。海と直結するダブリン港を強固な要塞で固め、流通の心臓部を握るべきだったんだ……!)
後悔しても遅かった。軍資金は底をつき、味方の貴族たちすら逃げ散っていく。平定を豪語していた遠征は、わずか八ヶ月で破滅を迎えた。
背後から迫る雄叫び。泥濘を逃げ惑う中、ジョンの足が取られた。
激しく前のめりに転倒した拍子に、胸元から飴色の革手帳が滑り落ちる。
冷たい泥水の中に、ピチャリと無残に沈む手帳。
「ああっ……母上のノートが……っ!」
必死に拾い上げたが、美しい飴色の子羊皮紙は、冷酷なアイルランドの泥水を吸って無残にふやけ、波打ってしまっていた。
ジョンは泥水をすすりながら小舟へ転がり込み、命からがらイングランドへと敗走したのである。
***
ウィンザー城の執務室。
暖炉の前で椅子に座り込んだ十八歳のジョンは、泥と海水でずぶ濡れのまま、寒さと屈辱に激しく歯を鳴らしていた。
そして――理不尽な感情論と泥水に揉まれたこの日、彼の胃の奥底には、生涯消えることのないキリキリとした激痛の種が初めて芽生えていた。
三百隻の船団と莫大な軍資金を海の藻屑にして逃げ帰った大失態。
兄リチャードたちなら、間違いなく父王に殴り倒されていたはずの惨状だ。
だが――父ヘンリー二世は、泥まみれで震えるジョンを怒鳴るどころか、涙を浮かべて強く抱きしめたのだ。
『無事でよかった、ジョン……! 気にするな、すべては現地の守護官どもの不手際だ!』
責任をすべて部下に押し付け、無条件に自分を庇い甘やかす老いた父。
(叱ってくれ……! 頼むから、なぜ怒鳴ってくれないんだ!?)
実務の無能を突きつけられた直後に浴びせられる盲目的な偏愛こそが、誇り高き青年のプライドを何よりも残酷に切り裂いた。
膝の上の『密輸ノート』は泥水を吸って醜くふやけている。
脳裏に、かつて母アリエノールが微笑みながら語った言葉が蘇る。
『数字や法を扱うのは――感情で動く生身の人間なのですよ』
「……感情だと? 人間なんて……人間なんて、単なる非合理な塊じゃないか!」
ジョンは震える手で、ふやけた手帳を机に叩きつけた。
「法と正義を届けようとした僕が否定され、感情で暴れる連中が勝つというのか……! 情緒も伝統も忖度も、二度と信じるものか! あいつらの部族法など、この統一ペニー銀貨の重みで消し飛ばしてやる! 見ていろ、海沿いに築かせる不抜のダブリン城と僕の帳簿が、数百年後にあいつらの子孫を完璧に支配してやる!!」
羽ペンをインク壺に乱暴に突っ込み、ふやけたノートに「人間=非合理」と書き殴るジョン。
傷つき、泥をすすった少年が、後に全土を冷徹な法と帳簿で震え上がらせる「ロジカルモンスター」へと歪んだ覚醒を遂げた瞬間であった。
泥水をすすった十八歳の負け犬の遠吠え……と笑うなかれ。
この時僕が泣きながら書き殴った「ダブリン城の建設令状」と「統一ペニー銀貨」は、後に本当にアイルランドを数百年にわたって英国支配下に縛り付けることになるのだから、執念の官僚とは我ながら恐ろしいものである。
だが、この敗走からわずか四年後――僕の人生を根底からへし折る、さらなる「地獄の泥沼」が待ち受けていた。
そう――父ヘンリー二世の、あまりにも残酷な最期である。




