第11話:受け継がれし「密輸ノート」〜胃袋と財布を掴んだ特権状は軍隊より固い〜
「商人の胃袋と財布を掴んだ特権状は、百年の軍隊よりも固く国を縛るのよ」
幽閉された母から、藁布団の奥に隠されていた一冊の飴色の手帳を手渡されたあの日――僕の運命は決定づけられた。
そう、後にイングランドとアキテーヌの歴史を根底から塗り替え、数百年後の現代法にまで繋がることになる禁断の秘録――『密輸ノート』の継承である。
――時は西暦一一七四年、秋。
ソールズベリー城の暖炉の前で、アリエノール・ダキテーヌは優雅に立ち上がると、天蓋付きのベッドへと歩み寄った。
そして、藁布団の奥深く、石壁の窪みに隠されていた小さな包みを取り出す。
暖炉の前に戻ってきた彼女の手には、一冊の革表紙の手帳が握られていた。
「これは……?」
七歳のジョンが目を丸くして見つめる。
それは、アキテーヌ特産の最高級子羊皮紙を束ね、使い込まれた飴色山羊革で装丁された、手のひらより一回り大きな手帳だった。
「わたくしの『密輸ノート』ですわ」
アリエノールは悪戯っぽい微笑を浮かべ、そっと手帳を開いて見せた。
そこには、驚くほど細密な文字と図表がびっしりと書き込まれていた。
アキテーヌ各地の諸侯たちの家系図と血縁関係。誰が誰と不仲で、誰が多額の借財を抱えているかという「弱み」のリスト。
そして――ボルドーのワイン交易から上がる莫大な関税の正確なカラクリと裏帳簿。
「よくご覧なさい、ジョン。ボルドーの商人たちに与えるワイン免税の特権状……これこそがアキテーヌの心臓部ですわ」
アリエノールは手帳の朱筆の箇所を細い指先でトントンと叩いた。
「剣で奪った土地は、いずれ剣で奪い返されます。けれど、商人の胃袋と財布を掴んだ特権状は、百年の軍隊よりも固く国を縛るのよ。武力で威圧するのではなく、利権と法で互いを切り離せなくさせる……これがわたくしの編み出した統治の極意ですわ」
相手に自ら譲歩させたと錯覚させる「心理誘導の交渉術」。
そして、数々の裁判を通じて編み出された、相手の反論を封じ込める「法の解釈論」――。
ヨーロッパ随一の女傑が半生をかけて蓄積した、門外不出の「帝王学の秘録」であった。
「今日からこのノートを貴方に託しますわ、ジョン。貴方が学んだこと、疑問に思ったこと、そして王国のあらゆる数字と記録を、ここへ書き留めていきなさい」
アリエノールは羽ペンに黒いインクを浸し、ジョンの小さな手に握らせた。
「数字と記録は嘘をつきません。条文と帳簿は裏切りません。……けれどジョン、絶対に忘れてはなりませんよ?」
アリエノールは真剣な眼差しで、息子の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「それらの数字や法律を扱うのは――どこまでも愚かで、愛おしく、感情で動く『人間』なのだということを」
「人間……?」
「ええ。人間は感情の生き物。プライドを傷つけられれば、どれほどの正論でも激しく拒絶します。感情への理解なきロジックは、ただの冷たい刃物。……相手の感情を読み、プライドを満たしながら、自らが望む法の檻へと優しく誘うのです」
その言葉は、ジョンの幼い胸の奥深くに、消えない焼き印のように刻み込まれた。
「はい……! はい、母上!」
ジョンは両手で大切そうに、ぎゅっとノートを抱きしめた。
「僕、絶対に世界で一番精密な法と記録のシステムを作ってみせます! 父上みたいに怒鳴り散らさなくても、兄上たちみたいに剣を振り回さなくても、誰もが一言も反論できない、完璧で公平な国を……僕が作ります!」
「まあ素敵! ふふ、わたくしの可愛い小鳥さん。楽しみに見守っていますわ」
***
カチャリと扉が開き、廊下で見張りをしていた衛兵隊長ラルフが顔を覗かせた。
「ジョン殿下、王妃様。お願いですからもう少し声を落としてください。もし密会が露見してみなさい、見逃していることが王に知れれば、私の首など一発で跳ね飛んでしまいますよ」
「あらまあ、心配性ですこと、ラルフ。貴方のその細やかな気配りには、後でアキテーヌ産の特級赤ワインを一本融通して差し上げますわ」
「……三本にしてください。私の首の代金としては、それでも安すぎるくらいですがね」
「まあ、ちゃっかりしていますこと。交渉成立ですわ」
アリエノールが楽しげに喉を鳴らすと、ラルフは「やれやれ」と肩をすくめ、扉を閉ざして周囲の警戒に戻った。
こうして、ソールズベリー城での「秘密の帝王学教室」が開幕した。
ジョンは月に一度、時には週に一度のペースで隠し通路を抜けて母の部屋へ通い詰めた。
南仏の銘菓や香料を差し入れ、引き換えに母からアキテーヌの統治術、財務官僚の動かし方、外交交渉のレトリックを貪るように学び取っていく。
やがてノートの余白は幾重ものインクで埋め尽くされ、小さな手帳は丸々と太った「知恵の塊」へと姿を変えていった。
――そして、十一年の歳月が流れた。
西暦一一八五年。
十八歳となったジョンに、父王ヘンリー二世から新たな勅命が下された。
『アイルランド卿として海を渡り、混沌渦巻くかの島を我が帝国の版図として完璧に平定せよ』
兄たちが戦場で血を流す中、ついに巡ってきた初の晴れ舞台。
だが――ジョンは母が残した最も重要な忠告――「扱うのは感情を持った生身の人間である」という警句を、若さゆえにどこか過小評価していた。
(数字と法さえ完璧なら、人間なんて容易に管理できる。野蛮なアイルランドの部族どもなど、僕のロジックで一瞬で完封してみせる!)
ああ、若さとはなんと愚かで恐ろしいものか。
当時の僕は、自分がこれからアイルランドの地で、人生最大の黒歴史をやらかすことなど夢にも思っていなかった。
そう――歴史に名高い「アイルランド髭引っ張り事件」である。
母上、ごめんなさい。僕の華々しいデビュー戦は、盛大な大自爆から始まる運命だったのです……!




