第7話 婚約者という名前は、まだ貸せません
「侯爵様の婚約者に、していただけば?」
言ったのはルチだった。
焼き菓子の盆を持ち、店の戸に立っている。
セオドア様が、今の嫌がらせをやめさせるには何ができるかと聞いた、その瞬間だった。
「そうしたら、あの人も、もう来ないんじゃない」
私は彼女の盆を受け取った。
ルチは悪いことを言った顔をしていなかった。十四歳の彼女には、物語の正しい続きを提案しただけなのだ。
「そうすると、侯爵様が婚約を申し込んだことになるの」
「申し込んでいただけば」
盆の上で、匙が一つ滑った。
私の手が揺れたからだ。
セオドア様は、その匙を拾ってから私を見た。
「お嫌ですか」
答えられなかった。
地位を借りたくないと即答するのは、きっときれいなことだ。
でも、昨日は誰かに自分の名前を戻してもらいたかった。助けてくれる人がいるなら、助けてほしい。
「お仕事のためなら、お申し込みはお断りします」
口から出たのは、それだった。
ルチが残念そうに盆を見た。侯爵様は、何も言わなかった。
私は続けた。
「私があなたの婚約者になりたいかどうかは、今、お答えできません。家へ帰ってから、怖くなくなってから、考えることだと思います」
言い終えて、自分の耳まで熱くなるのがわかった。
なりたくない、ではなかった。
彼も、それはわかったらしい。目を逸らさずに、一度頷いた。
「では、今は別の方法で」
借りられる力は、いくつもあった。
侯爵家の顧問を通じて、偽の手紙に関する正式な通知を出すこと。
町の巡回の方に、店へ来た人物と時刻を記録してもらうこと。
夜は裏の住居へ戻り、知らない客の訪問を一人で受けないこと。
どれも、名字を変えずにできた。
セオドア様は自宅にある客室も勧めてくれた。
私はミレイユさんと相談して、必要になったときだけ使うことにした。
店の鍵を持つのは、私と家主。受付帳の鍵は私だけ。来た人の名は、依頼の内容とは別に控える。
人を信用することと、信用する人を増やしておくことは、両方できるのだった。
ルチが厨房へ戻ってから、私はお茶を置いた。
「先ほどは、失礼なことを言いました」
「どこが、ですか」
「婚約のお申し込みも受けていないのに、お断りを」
彼は少し考えた。
「必要な返事だったと、思います」
私は俯いた。
他人の返事なら、いくらでも紙にできる。
自分の返事は、口に出してしまったあと、どこに置いてよいかわからなかった。
帰りに、彼は店の戸で振り向いた。
「仕事ではない日に、話をしませんか」
「何の、お話でしょう」
「梨の菓子以外にも、好きなものがあるか」
侯爵様の真顔を見て、私はとうとう笑った。
ほっとしたら、気持ちが笑いになって出てきた。
「甘いもののお話ですか」
「それから、あなたが、休む日のことも」
私は翌週の空いている午後を、指で示した。
それに何という名前がつくのか、彼は決めなかった。
私も、決めなかった。
店を閉めると、ミレイユさんが裏口で腕を組んでいた。
「あの子の口は、私が叱っておく」
「悪気はありませんでした」
「悪気がなくても、人を結婚させていいわけじゃないからね」
私は笑い、次の水曜日は店を閉めると伝えた。
彼女は急に、粉のついた手を自分の頬へ当てた。
「そういう話を、私にするようになったのね」
家賃と商売のことばかり話していた三年間を、二人とも思い出していた。
私はうんと頷いた。
今度は、誰かの返事を待つ仕事をしているわけではなかった。




