第6話 その「お」は、私の文字ではありません
偽物は、うまく書かれていた。
『フェイン代筆室』という小さな印まで、同じ形だった。
結縁院のハルド代表が、それを机に置いた。
五十ほどの男性で、柔らかい緑の上着を着ている。店の敷居を踏まず、帽子もきちんと脱いだ。礼儀のある人が悪いことをしないとは、父から教わっていない。
「あなたのお名前で、当院に対する苦情を募る手紙が回っております」
私は宛名を見た。
マリア様でもソフィさんでもない、知らない女性だった。
文面には、自分に相談すれば預託金を必ず取り返せる、侯爵家が後ろ盾だ、とある。
署名の下に、私の店の名。
「書いていません」
「そうでしょうとも。若い方が、人の失意につけ込むような商売をするとは、思いたくありません」
彼は、その紙を私のほうへ押した。
わざわざ思いたくないことを口にする人は、相手にだけそれを思わせたいのだろう。
「誤解を解くために、声明をお出しなさい。当院は正当な手続きを行っており、私の助言に誤りがあった、と」
「その二つは、私が確認していないことです」
「このままでは、あなたも困る」
私は紙の右下を見た。
控え番号、三一七。
私の印を押すときには、清書の控え番号を添える。原稿を残す許可がなくても、日付と依頼の種類と番号は受付帳につける。
三一七は、荷車の部品注文だった。
もちろん、今ここでその依頼人の名前を教えるつもりはない。
「この紙を、預かってよいでしょうか」
「あなたが回収してくださるなら」
「回収ではありません。何を求められたのか、弁護士に相談します」
ハルド代表の目が少し細くなった。
私は手を引いた。
紙の角には触れていない。
「今日はお持ち帰りください。今のご提案を、ご自身の署名付きでお送りいただけますか」
彼は立ち上がった。
本当に相談するつもりなら名誉を損なうことになる、と丁寧に忠告した。
店の戸も丁寧に閉めた。
私は一人になってから、手を見た。
ペンを握っていないのに、握っている形に固まっていた。
裏口からミレイユさんが来た。厨房へ抜ける小窓があるので、話し声は届いていたらしい。
「今の人、商売をくれる人じゃないのね」
「はい」
「戸の外まで送らなくて、正解よ。あれは、二人きりになると話が増える人だわ」
私は頷いた。
仕事の話だと考えると、何でも最後まで聞いてしまう。それで悪い返事を書かないとは限らない。
ナディアさんには、時刻と会話を覚えている範囲で書いて送った。
偽の紙を見たこと。原本は借りていないこと。文字が似ていること。
『お』の最後が閉じていたこと。
私の父は、急いで書くときにも最後まで線を戻さなかった。私も同じ癖で書く。
けれど、癖だけでは偽造と決められない。似せた人にも、私が気まぐれで変えた可能性にも、説明がつくからだ。
返事は、その日の夜に届いた。
ナディアさんは紙の差し止めを求め、関係する送付先を正式に確認するという。
私は受付帳を持ち出さず、複写の準備だけをしておくことになった。
翌朝、セオドア様が来た。
いつもの菓子は、持っていなかった。
「聞きました」
私は、大丈夫です、と答えかけた。
それを聞いて帰ってくれれば、彼は安心するだろう。
でも、安心させるために仕事をするのが、昨日から急に嫌になっていた。
「怖かったです」
彼は私を見た。
返事が来るまで、私は指を机に置いたまま待った。
「あなたの名前を、勝手に使わせたくない」
セオドア様は言った。
低い声だった。
私は自分の名を、三年も看板にしていた。
それが奪われると怖いのだということを、他人の言葉で初めて知った。




