第5話 返ってこない持参金と、返さない返事
マリア様のお金は、六百金貨だった。
結婚の支度のため、母君から受け継いだ財産の一部を結縁院へ預けていたという。
年に金貨四枚の家賃を払う私には、六百という数は棚の向こう側にある。
でも、母の形見を返してほしいという言葉には、数の大きさがなかった。
「ワルター様のお返事です」
妹様が見せた紙には、冷たい丁寧さが並んでいた。
預けられた金銭はすでに婚姻準備に充てられているため、返却には時間を要する。
ブローチは婚約の証として贈られたものであり、返還の必要はない。
それから、私が書いたことになっている、もう一つの返事。
誤解を招き、申し訳ございませんでした。
「これ、何でしょう」
私は手を伸ばさずに聞いた。
マリア様は首を振る。
「院の担当者が、あなたならこう書くでしょう、と置いていきました」
ささくれに気づいてしまったときのように、指が気になった。
私なら、こう書く。
彼らには私も、丁寧な言葉をいくらでも売る道具に見えるのだろうか。
「お返事を、書く必要はありますか」
私は尋ねた。
商売をする者として、二度目の下手な質問だった。
マリア様は、窓を見た。
「謝りたくありません。間違ったことは、していませんもの」
「では、それを下書きにしましょうか」
「いいえ。ナディアさんが、次からは窓口を引き受けてくださいます。今日は、あなたにお礼を言いたかったんです」
私の小さな仕事は、いったん終わっていた。
そのことが寂しくなるとは思っていなかった。
妹様は、音楽院の受付で渡された練習曲を机に広げた。五線の中に鉛筆の印があった。
「先週は、指が動かなかったのです。昨日は、最後まで弾けました」
「審査は、いつですか」
「来月です。弾けるようになることと、合格することは、まだ別ですけれど」
少し笑って、楽譜を畳んだ。
彼女は不幸な令嬢のまま、私の店に座っているつもりはないのだ。
その翌日、別の女性が来た。
商人の娘で、名前をソフィと名乗った。
婚約者が家業を継ぐために別の相手と結婚することになり、解消は済んでいる。
彼女が欲しいのは、半年も戻ってこない三十金貨の催促状だった。
「私のほうが、忘れてくれないかと待っているように思えてきたんです」
差し出された紙を見て、私は顔を上げた。
結縁院。
合意書には、マリア様が持ってきたものと、同じ放棄の文言があった。
ソフィさんは、署名していた。
「これで、もう全部終わっているのでしょうか」
私には答えられない。
読みやすい紙ほど、それを読めた人は意味もわかったと思い込む。
そこに何が含まれるかを知らないことと、字が読めないことは違う。
「まず、法律の相談をしてみませんか。私は、その相談で伝える経緯を整理できます」
「弁護士のお金まで、払えません」
私は以前使った、商人組合の相談窓口の案内を出した。
小さな商売の手数料を争ったとき、父の知人が教えてくれたものだった。初回の相談は無料で、委任するかどうかはその後に決められる。
紹介状だけ、書こうかと尋ねる。
ソフィさんは頷いた。
結縁院の紙は、借りなかった。
必要ならご自分で持っていくように、順番を一緒に確認した。
相談する理由を、彼女が読める長さでまとめる。
三日後、ナディアさんが来た。
ソフィさんの案件も担当することになったと、本人の紹介許可を添えて教えてくれた。
「同じ紙が、ほかにもあるようです。全部が不正とは、まだわかりません。でも、紙ごとに確かめる価値はあります」
私は頷いた。
文字を書けば、人の人生がよくなる。
そう思ってこの仕事を始めた。
今は、書かないほうがよい返事があることを、ようやく仕事として覚え始めていた。




