第3話 代筆できない一文
次に侯爵様が持ってきたのは、領地の手紙だった。
春に開く学校の教師へ、着任の確認を送るという。
封筒には『クローヴェル侯爵セオドア』とあった。名前を知って、少しだけ顔と結びついた。
「城に、代筆の方はいらっしゃらないのですか」
「います」
「でしたら、そちらのほうが、ご事情も」
「必要なことだけを、書かれます」
私は便箋から目を上げた。
彼は薄い紙を出した。到着日、旅費、住居、授業開始日。たしかに、必要なことは全部書いてある。
「何か、付け加えたいことがおありですか」
長い沈黙の後、彼は言った。
「先月、教師の母親が、亡くなりました」
父の葬儀の日に届いた仕事の催促を、私は思い出した。
悪意のない紙だった。悪意がないとわかることは、その紙を見るのを楽にしてくれなかった。
「着任を延期してもよいと、お伝えしたいのですか」
「延期だけでは、給料が」
それを口にしたところで、彼はまた止まった。
私は机の上の砂時計を棚に移した。いつもは筆耕の時間を測るために置いてある。
彼の目が、ほんの少し緩んだ。
「最初の一月は、準備を家でしてもらって、賃金を払いたい。来なくていい、だけでは、不安だろうから」
話したことを、私は順番に書いた。
教師が断れるよう、来る場合の宿も、準備を家でする場合の仕事内容も確認する。
侯爵様は、問いには一つずつ答えてくれた。
できあがった便箋を、彼の側へ滑らせた。
「こちらで、合っていますか」
彼は読み、最後の一文を指した。
ご母堂様のご逝去につき、心よりお悔やみ申し上げます。
「よく、ある文章です」
「はい」
「嫌では、ありません。でも、私が、言ったことではない」
手が止まった。
私はお客様の気持ちを、上手な文章にする仕事をしている。
ところが、その上手な文章を、彼は返してきた。
「何と、おっしゃりたいですか」
彼は視線を紙に落とし、低く言った。
「急いで元に戻らなくていいと、伝えたい」
その言葉を、私はそのまま書いた。
敬語に整えることはできた。でも、今回は整えなかった。
彼が読み直して、頷いたからだ。
帰り際、セオドア様は妹の書類の控えを見せてくれた。
ナディアさんが、結縁院から預託の明細を取り寄せているらしい。
マリア様が受け取ったときの明細と、届いたものとで、細かな数字が違うという。
「代筆の相談では、ないのですが」
私は二枚を並べた。
金額の正しさはわからない。
けれど、別紙と呼ばれる明細の行数は数えられる。妹様のものは十八行。院から届いたものは十七行だった。
表紙の末尾には『別紙十八行』とある。
「ここが、合っていません。数字だけでなく、紙の組み合わせも確認してもらったほうがよいと思います」
彼は書類を見つめた。
受付番号は同じなのに、最後の行がなくなっている。
その行は、預けた財産の使途を制限するものだった。
「ナディアに、伝えます」
彼は紙を丁寧に鞄へしまった。
私に預けるとは言わなかった。私は弁護士でも、調査人でもない。それがありがたかった。
午後、教師宛ての清書を完成させた。
署名と封は侯爵家でしてもらう。宛先と下書きを照らし合わせ、紙を包んだ。
急いで元に戻らなくていい。
父が死んだ春、私にはそう言う人がいなかった。
いたのに、私が聞かなかったのかもしれない。
夕方、ミレイユさんが売れ残りのパンを二つ持ってきた。
「お疲れさま。今日は長いお客だったわね」
「はい。少し、待つ練習をしました」
「待つのに、お代は取った?」
「紙を書いた分だけです」
彼女は呆れた顔をしたあと、私の前に大きいほうのパンを置いた。
私は初めて、気にせずそれを受け取った。




