第2話 冷徹侯爵様は、妹の返事を待っていました
侯爵様に出すには、うちの椅子は少し小さかった。
彼は膝を斜めにして座り、背を丸めて机の上を見ている。噂の人物と家具の寸法が合っていないというだけで、私は幾分落ち着いた。
妹様のお名前はマリア。まだ十九歳だという。
「弁護士を、呼びます」
侯爵様はそう言い、そこで一度口を閉じた。
何かを続けようとしているようだったので、私は待った。
「清書は、その後に」
「はい。お返事の期限はありますか」
マリア様が、封筒を出した。三日以内に合意書を返送しなければ、品位ある解消には応じられないとある。
侯爵様の指が、封筒の端を強く押さえた。
「急ぐ必要は、ない」
「お兄様、私が昨日まで、急いでお返事を書こうとしたのは」
彼は手を離した。
マリア様は兄を見て、少しだけ声を大きくした。
「これ以上、噂されたくなかったからです。誰といても、お気の毒に、と言われるのが嫌でした」
侯爵様は、すぐには返事をしなかった。
表情の動かない顔を見ているうちに、私は気づいた。怒っていて黙っているのと、言うことを考えて黙っているのは、外からでは区別しにくい。
「音楽院へ、行こう」
ようやく出た言葉に、妹様が目を上げた。
「今、ですか」
「婚約が、なくなるなら。許可を待つ必要はない」
マリア様は小さく笑った。ごく自然な笑顔だった。
私は下書きを読み返してもらい、訂正したいところに印をつけていただいた。
『残念に思っております』は、嘘ではない。でも、もう少しはっきり書きたい、と彼女は言った。
言われたとおりに直す。
自分の意向と異なる説明を公になさらないでください。
午後、侯爵家からナディア・ローウェンという弁護士が来た。
紺の服を着た、歯切れのよい女性だった。
彼女は私の机に大きな書類鞄を置く前に、置いてよいかと聞いた。
それだけで好きになりそうだった。
「この国の婚約は、婚姻ではありません。解消への同意と、財産の清算は分けて進められます。結縁院が出した紙のような広い放棄は、今は勧めません」
マリア様が頷き、私は手を止めた。
説明を私が書き直して渡せば、私の文章になってしまう。
ナディアさんは注意事項を自分の手で別紙に書き、下書きの法律に関わる部分だけを確認した。
「日付と、返却の方法を入れましょう。保管品の目録も欲しいですね」
夕方には、手紙が一枚できた。
豪華な便箋ではない。私の店で使う、厚手の白い紙だ。
マリア様はそれを声に出して読み、母のブローチの形を最後に付け足した。
青い石が一つ。裏に、名前の頭文字。
それから自分で署名した。
「私、これを出します」
その声を聞いて、侯爵様は頷いた。
彼の返事を待たずに封筒を閉じた彼女を、私は頼もしいと思った。
清書のお代は銅貨五枚。
侯爵様が差し出した金貨を、私は見つめた。
「お釣りがありません」
「必要ありません」
「代筆のお代は、銅貨五枚です」
彼は私の顔を見た。私は、自分の声が震えないように机の下で足を踏ん張った。
彼が守りたいものは理解できた。でも、感謝の金貨と仕事のお代を同じ皿に入れたら、次から何のために書くのかわからなくなる。
「では、妹が払います」
マリア様が小さな財布を出した。
五枚の銅貨が、きちんと並んだ。
侯爵様は立ち上がり、椅子を机に戻した。私はその手つきを見ていた。
慣れていない。けれど、誰かがするまで待ってもいない。
「また、お願いできますか」
「手紙の代筆でしたら」
彼は頷いた。
戸口まで行って、少し戻ってきた。
「私の、手紙も」
妹様が、兄の顔を見上げる。
侯爵様はわざとらしくないほど静かに、私の返事を待っていた。




