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第1話 婚約破棄のお返事は、銅貨五枚です

「承知いたしました。あなた様の今後のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」


そこまで読んで、私はペンを置いた。

向かいの椅子に座る令嬢は、きれいなままだった。帽子の飾りにも、手袋の指先にも乱れがない。ただ、膝の上の手だけが、ひどく固く組まれている。


「このお返事を、そのまま清書なさいますか」

「はい。そうするのが、一番よいと言われましたので」


私は彼女が持参したもう一枚の紙を見た。

婚約の解消に同意し、これに伴う一切の請求を放棄する。

幸福を祈る文面の下に、ずいぶん大きなものがくっついている。


「これをお持ちになったのは、お相手の方ですか」

「婚姻を取り持った結縁院の方です。穏やかにお別れするには、これが一番だと」

「お別れには、同意なさっているのですね」


令嬢は頷いた。速かった。


「でも、お幸せを祈っているかどうかは、聞いてもらえませんでした」


少し遅れて、その声が来た。

窓の向こうでは、隣のパン屋が昼の焼き上がりを告げている。丸い小部屋に、甘い匂いが入ってきた。

私の店は看板だけなら立派だ。

『フェイン代筆室』。

中にあるのは机一つ、椅子三脚、紙をしまう棚。それに、冬の仕入れを迷っている私。

貴族の婚約を扱えるほどの店ではなかった。


「お相手に伝えたいことを、ご自身の言葉で教えていただけますか。清書のお代は銅貨五枚です。まだ書いていませんから、ここでお帰りになってもお代はかかりません」

「怒ったことを書いても、よいのでしょうか」

「怒っていることと、相手を侮辱することは、別にできます」


彼女は、ようやく手をほどいた。


「お茶会で、婚約を解消したいと言われました。別の方と結婚するそうです。私が音楽院へ通いたいと話したことが、お気に召さなかったと」

「音楽院へは、今も行きたいですか」

「はい」


今度の返事には、遅れがなかった。


「それから、預けたお金を返していただきたいです。お母様のブローチも」


私は手元に新しい紙を置いた。


「財産の請求を、この文面で放棄してよいかは、私では判断できません。弁護士に確認してから、お返事を出したほうがよさそうです」

「お手紙屋さんなら、全部おわかりになるのでは」

「読みやすくすることはできます。でも、読みやすい間違いにしてしまうこともあります」


令嬢が初めて私を見た。

私は書記官の娘だった。父が亡くなってから、代筆で暮らしている。だからこそ、ここで何でもできる顔をしてはいけなかった。


「たとえば、こうです」


婚約の解消には同意いたします。

その理由について、私へのご説明と周囲へのご説明が異なることは、残念に思っております。

お預けした財産の清算は、別途ご相談いたします。

母のブローチは、返却をお願いいたします。


読み終えると、彼女の目から涙が一粒落ちた。

私は慌てて布を探した。書類を濡らす前に、などと思った自分が嫌になる。

彼女はハンカチを出し、紙には触れずに言った。


「これなら、私が言ったことです」


私はその紙を彼女のほうへ向けた。


「まだ下書きです。ご家族にも見てもらえますか」

「兄に」

「では、今日はお持ち帰りください」


銅貨を出そうとする手を止め、下書きは無料だと伝えた。今月の家賃を思えば、立派な経営判断とはいえない。

でも、署名の意味もわからないまま持って帰る人に、清書を売りたくなかった。

彼女は丁寧に頭を下げて帰った。


翌朝、店の前に黒い馬車が止まった。

パン屋のミレイユさんが、裏口から顔を出す。


「アメリア。借金取りにしては、上等すぎるわよ」

「借金取りだったら、パン代は先にお返しします」

「冗談よ。背筋を伸ばしなさい」


戸が叩かれた。

入ってきたのは、灰色の目をした背の高い男性だった。飾りの少ない上着が、逆に良い仕立てだとわかる。

その後ろに、昨日の令嬢がいる。

彼は私が書いた下書きを机に置いた。


「これを、書いた方は」

「私です」


彼の指が、最後の一行に留まった。


「妹は、ブローチを返してほしいと言っていたのですか」


責める声ではなかった。むしろ、何かを取りこぼした人の声だった。


「はい。ご本人から伺いました」


男性は振り返り、令嬢に向かって頭を下げた。


「先に、聞くべきだった」


私は銅貨五枚の小皿を、そっと棚へ戻した。

店を開いて三年。お客様の前で謝る貴族は、初めて見た。

昨日の令嬢が、少し誇らしそうに言った。


「兄です。クローヴェル侯爵と申します」


冷徹侯爵。

王都で、笑顔も弁解も受けつけないと噂される方だった。

私は彼の頭が上がるのを待ちながら、今日のお茶には砂糖を入れるべきか、真剣に考えていた。

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