第17話 婚姻届には、私が署名します
侯爵家へ行って初めて、私は身分の差を大きさで知った。
廊下だけで、うちの店が六つほど入る。
家を管理する人、来客を迎える人、領地との連絡を取りまとめる人。それぞれ仕事が違った。
何もわからないまま私が全部引き受ければ、すでに働いている人たちの仕事まで混ぜてしまう。
家の後見評議会との話し合いでは、反対の声もあった。
司法書記の娘では、貴族同士の付き合いを理解できないのではないか。
侯爵夫人が、町で客のお代を数えるのはどうか。
私は答えようとして、隣に座るセオドア様を見た。
彼は急がず、書面を出した。
婚姻相手を選ぶ権限は本人にあること。家の財産と、私の事業の財産を混ぜないこと。
相談した公証人が、必要な手続きを説明した。
家の名前を使う仕事に、何も考えず私の店を選べるわけではない。
客の秘密も、結婚すれば侯爵家のものにはならない。
それは、私が先に確かめておきたかったことだった。
「付き合いの作法は、学びます。ただ、わからないままお返事をして、後で違いましたということは、なるべく避けたいです」
私はそう話した。
評議会の一人が、毎月の晩餐を準備できるかと聞いた。
家令が、自分が担当すると答えた。今もそうしているからだ。
別の方が、親族の来訪をどうするか尋ねた。
私は予定を先に知らせてもらいたいと答えた。
それだけで、ずいぶん驚かれた。
一度の席で、皆が私を好きになったわけではない。
でも、次の話し合いで確かめることが決まった。
理解されないかもしれないから黙ることと、理解してもらうまで話すことの間に、回数があるのだった。
婚姻の届出は、初夏になった。
その前に、湖の町へは三人で出かけた。
マリア様は鳥の笛を買い、兄に渡した。
彼は吹いた。音は、鳥には聞こえなかった。
妹様が笑い、私も笑った。
本人も笑ったので、三人とも、もう一度吹いてほしいと思った。
王都へ戻り、結婚式の準備をした。
招待状は、私の店で引き受けなかった。
仕事にすると、期限まで机に向かってしまうからだ。
侯爵家で以前から頼んでいる筆耕の方に任せた。
私が書いたのは、姉と母への手紙だった。
お祝いに来てください。
泊まる部屋は、あります。
私が暮らす家を、見てもらいたいです。
母は体調を確かめて、姉夫婦と一緒に来てくれた。
玄関で顔を見たとき、私は走ってしまった。
長い裾が足に絡み、姉に止められる。
母が、あなたはいつも戸口へ急ぐのねと言って笑った。
届出を確認する小部屋には、公証人がいた。
机の上には、二人分の名前が並んでいる。
私は一文字ずつ読み、住所と、婚姻後の名の扱いを確かめた。
店の看板は、フェイン代筆室のまま。
書類上必要な名と、商売で使う名は、公証人と先に整理していた。
「内容を確認し、ご自身の意思で署名なさいますか」
私は、はいと答えた。
いつもは、他人の手がペンを取るのを見ている。
今日は私の手だった。
インクをつけ、名前を書いた。
父の形に似ている文字。それでも、父が選べなかった続きを、私が選んだ。
セオドア様も署名した。
公証人が確認し、紙をしまった。
私は手を見た。少しだけ、指にインクがついていた。
彼にもついている。
二人で見せ合って、小さく笑った。
式では、彼の誓いの言葉に、少し間が開いた。
誰も続きの文を言わなかった。
家令も、妹も、母も待っていた。
彼が最後まで話してから、私は返事をした。
夜、客が帰ったあと、彼が私へ言った。
「疲れましたか」
「はい。嬉しかったです。疲れました」
彼は頷いた。
私を失望させたという顔は、しなかった。
「明日は、眠りましょう」
私は、はいと答えた。
婚姻届を出しただけで、上手な妻になったわけではない。
でも、嬉しいことと疲れたことを同じ人に言える夜が、一つできた。




