第16話 これは、代筆の依頼ではありません
湖の町へ行く前に、手紙が届いた。
セオドア様の封だった。
今までの報告よりも、少し厚い。
私は机の上を片づけてから開いた。
アメリア・フェイン様。
あなたと結婚したいと思っています。
二行目まで読んで、私は便箋を置いた。
店の窓は開いている。街の音も、隣でパンを並べる音も、全部聞こえた。
二行だけが、そこから別の場所に置かれたようだった。
私は便箋を、もう一度持った。
あなたが妹のために書いてくれた文章を、私は大切に思っています。
でも、あなたと会いたいと思うようになったのは、梨の皮を皿に落として笑った日からです。
言葉が出ないときに待ってくれることも、私に会いたいと手紙をくれたことも、嬉しかった。
仕事のない日も、何もよい話がない日も、あなたと暮らしたいです。
文字の太さが、途中で少し変わっていた。
ペンへインクをつけ直したのだろう。
紙の上には、一か所、乾いてから擦った跡がある。
あなたが店を続けたいと知っています。
結婚すれば侯爵家の仕事が増えるのではないかという心配も、あると思います。
私は、その心配をないことにはできません。
だから、あなたが考えるために必要なことを、一緒に確かめたいです。
断る返事でも、代筆を頼む仕事の条件は変えません。
この手紙への返事は、あなたの店へ伺うときではなく、あなたが決めた時に聞かせてください。
セオドア・クローヴェル。
私は署名の上に指を置いた。
一度も侯爵という文字が出てこなかった。
それでいて、侯爵の妻になる現実から逃げてもいなかった。
返事を書くための紙を出した。
謹んでお受けいたします。
最初に書きそうになった、その文をやめた。
何を、どうお受けするのか。好きだと言うこともせずに、結婚を受ける手紙にしたくなかった。
私は、あなたが好きです。
そこまで書くと、急に顔が熱くなった。
他人が書いてほしいと言った言葉なら、恥ずかしくない。
自分の言葉は、紙に置いたあとでも、こちらを向いている。
次に、思ったことを一つずつ書いた。
一緒に暮らすことを考えたいこと。
店を続けたいこと。
大きな家に慣れるまで、時間がかかりそうなこと。
知らない人の前で、侯爵夫人らしい返事をうまくできないかもしれないこと。
私は顔を上げ、戸の注意書きを見た。
本人の文章を清書する仕事は受ける。
便箋には、私しか書けないものが書かれていた。
次の水曜日、植物園の門で会いたいと追伸を入れた。
そして、自分の名前で署名した。
当日、彼は門の横で待っていた。
以前と同じ柱のところだった。花の名前の板は、夏に向けて入れ替わっている。
私は二通の手紙を、鞄に入れていた。
「お返事は、届きましたか」
セオドア様は頷いた。
口元が少し動いたが、声は出なかった。
私は待った。
急がなくてよいと言うことさえ、今は急かす気がした。
「何度も、読みました」
ようやく出た言葉に、私は笑った。
「私も、あなたのお手紙を」
彼は一度目を閉じてから、私を見た。
「好きです。あなたが」
言葉の順序は、それでよかった。
私は、はいと答えた。
それから、彼が聞きたい返事まで言った。
「私も、あなたが好きです。結婚したいです。でも、お家のことを、先に教えてください」
彼は頷き、鞄から書類を出しかけた。
私は吹き出した。
「準備なさっていたのですか」
「聞かれるかもしれないと。断られたら、出さないつもりでした」
彼の手を、私は初めて自分から取った。
少し冷たい。私の手も同じだった。
「書類は、帰ってからでよいです。まず、花を見たいです」
セオドア様は鞄を閉じた。
手は離さなかった。
私はそのまま歩き始めた。
結婚したいという返事のあとにも、今日したいことを言ってよい。
そのことが、何より嬉しかった。




