第10話 雨の日の返事は、短くていい
水曜日には、雨が降った。
私は店の戸を閉め、パン屋の窓際の席に座っていた。
午後の約束を自分から書いたのだから、待つのも自分でしなくてはいけない。
窓ガラスを流れる水を、七本まで数えてやめた。
セオドア様は、予定の時刻より少し遅れて来た。
肩が濡れている。
御者の足が悪くなり、辻馬車から歩いて来たらしい。
「遅く、なりました」
「お茶は、今から頼むところです」
冷めたお茶を隠して、そう言おうと思った。
私はカップを机に残した。
「心配しました。でも、来てくださって嬉しいです」
セオドア様は、帽子を掛ける手を止めた。
私は、違う言葉にしたくなるのをこらえた。
彼は濡れた上着を脱ぎ、少しだけ笑った。
「先に手紙を、送ればよかった」
「間に合わないと思います」
「たしかに」
そう言って、二人とも笑った。
ミレイユさんが乾いた布を持ってきて、温かいお茶を二つ置いた。
私は払おうとした。今度こそ、財布を机の上へ先に出しておく。
彼は財布を見て、何も言わずに頷いた。
「ナディアから、聞きました」
私の店の外に男が立ったことだろう。
彼の顔が硬くなった。
「もっと、早く」
そこで声が止まった。
彼はカップの縁を見ている。守れなかったことを、急いで言葉にしようとしているようだった。
「怖かったと、手紙に書いたことですか」
彼が頷く。
「もし、今日のあなたが、それを知っている方として来てくださったなら、十分です」
私は机の木目を見た。
怖くなるたび、彼の家へ逃げ込みたいと思えば、仕事を続けることも彼の都合になる。
彼に会いたくて来た日まで、その話ばかりしたくなかった。
「今は、昨日買った本の話をしたいです」
鞄から、薄い旅行記を出した。
挿絵に、大きな湖と、細い橋がある。
村にいたときには、父が読む本を借りていた。王都へ来て、自分のお金で選んだ本はまだ少ない。
私は湖の町の一節を読んだ。
セオドア様は、その橋を渡ったことがあるという。
絵より実物のほうが低く、水鳥が欄干に乗るので、歩くときは見上げるより下を見たほうがよいそうだ。
「本には、そんなことが書いてありません」
「書いた方は、鳥に、突かれなかったのでしょう」
私は笑った。
侯爵様の幼い日の話を、初めて聞いた。
父君と訪れ、言葉が出るのを待ってもらえず、土産の希望を答えられなかったという。
父君は立派な彫刻の置物を買ってくれた。でも、彼が欲しかったのは木の鳥の笛だった。
「妹が後から、買ってくれました。今も、あります」
私は、マリア様の顔を思い出した。
兄ができないことを、妹ができた。
二人とも、それを言えるようになるまで時間がかかったのだ。
「私、店を始めたとき、父のペンを使っていました。でも、手に合わなかったんです」
「今のペンは」
「自分で選びました。安いですけれど。父に言ったら、先にそうしなさいと言われたと思います」
彼が頷いた。
誰かの好きな形を、自分の手に押し込まなくてもよい。
私は彼といると、そんなことを考える。
雨が弱くなり、窓際が明るくなった。
彼は私の本の表紙を見て、ためらいながら言った。
「いつか、一緒に。行きませんか」
大きな約束だった。
いつか、という言葉なら誰でも言える。でも、彼は言う前に随分考えていた。
私は湖の絵を閉じた。
「はい。行けるように、休みを作ります」
彼が私を見る。
喜んでいるのに、まだ信じていないような顔だった。
私はその顔も、見ていてよいのだと思った。




