第七話 日々に名前があった頃
「百年前じゃない、とは言った」翌朝、ルチア・スクリバーニは前掛けの紐を結び直しながら言った。「けど、じゃあいつなのか。それを言うには、物差しがいる。この街で百年ぶん、日付のわかっている紙を片端から嗅がなきゃならない。手伝いなさい、テオドーロ。あなた、古い紙は好きなんでしょう」
好きだった。テオドール・ブレンナーは、そのひと言だけは、否めなかった。
公証人組合の古文書庫は、地下のさらに奥にあった。年ごとに区切られた棚が、松明の届かぬ闇へ洞窟のように続いている。南メリディアの公証の記録は、王国が建つより古いのだという。土地の売買、船の請け、婚姻、遺言――百年、二百年、三百年ぶんの人の約束が、日付とともにこの闇に積もっていた。
テオは、正直に言えば、恐怖より先にめまいのような幸福を覚えた。日付のわかる紙が、これほど。北辺で、日付のない紙ばかりに追い回されてきた身には目が眩むような富だった。
「そっちの顔、やめてくれる?」ルチアが横目で言った。「宝の山を見つけた子供の顔よ。鑑定士は、紙に惚れちゃいけないの。惚れたら、その紙が言ってほしいことを聞いてしまうから」
「惚れては、いません」
「口の端が、上がってる」
図星だったので、テオは口を引き結んだ。北辺で、拓本を採るとき、リーケに「一致です、と言うとき声が半音上がる」と指摘されたのをふと思い出した。北へ行っても南へ来ても、この癖はどうやら顔から漏れるものらしい。
「北の役所はね」ルチアは棚の一つを顎で示した。「紙を中身で分ける。種類、番号、日付。あなたたち、そうやって並べるでしょう」
「並べます。それが、索引です」
「南の鑑定士は、紙を素性で分ける。どこで漉かれ、どの墨で書かれ、何年、土の下にいたか」ルチアは、埃の積もった一巻を抜き、鼻を近づけ、また戻した。「同じ紙を、あなたは頭で読み、わたしは鼻で読む。……どっちが正しいと思う、テオドーロ」
「両方です」テオは、少し考えて答えた。「片方だけでは、片目です。私は、この街でそれを学びました」
ルチアは、へえ、という顔をした。北の役人にしては、覚えが早い、とでも言いたげだった。
*
鑑定の物差しは、地道な作業だった。
ルチアは、破棄命令書の写しを一枚の羊皮紙とみなし、その紙質・墨の載り・罫の引き方を、年代のわかる南の記録と一枚ずつ突き合わせていく。「この紙の漉き方は、この五十年のものよ」「この墨の黒みは、没食子の配合が新しい」「この罫は、鉄の定規で引いてる。百年前の南は、まだ鉛だった」。テオは、指示されるまま年ごとの綴りを棚から抜いては戻した。北の検認で拓本を照合するのと、やっていることはそう変わらなかった。ただ、照らし合わせるのが銘の文言ではなく、紙と墨と時間だという、それだけの違いだった。
「北のやり方だと」棚の間で、ルチアが訊いた。「あなた、この命令書を、どう検めるの」
「様式です」テオは即座に答えた。「発信の局課、整理番号、日付、署名。定められた欄が、定められたとおりに埋まっているか」
「で、埋まってた」
「埋まっていました。だから、私には崩せなかったのです」テオは少し悔しそうに言った。「様式に瑕疵のない紙は、私の戦場では正しい紙です。中身がどれほど不吉でも」
「そこよ」ルチアは指を鳴らした。「様式はいちばん真似しやすいところなの。欄の名前も、番号の付け方も、公示されてる。学べば、誰でも真似られる。真似られないのは、こっち――」彼女はまた墨の一点を拡大鏡で指した。「その年に、その街で漉かれた紙。その年に、その工房で練られた墨。物は、隠れて手に入らない。時間は、買えないの」
様式主義の北と、物質主義の南。テオは、この皮肉屋の鑑定士と組むうちに、自分の検認が片目でものを見ていたことに気づきはじめていた。銘の文言は読めても、その銘を刻んだ石の齢をテオは検めたことがなかった。石は古い、と決めてかかっていた。決めてかかることは、検めないことと紙一重だった。
*
地下に籠って二日目の昼過ぎ、階段の上から聞き慣れた足音が降りてきた。
リーケだった。片手に、油紙の包みと、水の革袋を提げている。
「二日、飯を食っとらんな」彼女はテオの前に包みを置いた。南の平たい麺麭に、腸詰と、油で炒めた豆。「宿の主人に相場を検めさせた。この街の飯は高い。だが、市場の裏に公証人相手に安く売る飯屋がある。領収書も出る。ここの飯屋は、公証人にだけは律儀に紙を出しやがるんだ」
「……あなたは、この街を、三日で攻略なさったのですか」
「敵の懐は、財布から開く」リーケは、ルチアのほうをちらりと見た。値踏みする目だった。ポルツの主計室でテオを検分したのと同じ目である。「あんたが、鑑定士か。二日、この坊やを地下に閉じ込めとる」
「閉じ込めてるのは、紙のほうよ」ルチアは手を止めずに言った。「わたしは、ついてきてるだけ」
リーケは、ふん、と鼻を鳴らした。それから、意外なほど静かに付け加えた。
「――飯は、ちゃんと食わせろ。腹の減った頭は、数字を間違える。あたしの経費のいちばん最初の教えだ」
「……いいわね」ルチアが、初めて拡大鏡から顔を上げた。「その教え、覚えておくわ。金と飯の勘定に狂いのない人は、信用できる」
「金と飯の話なら、誰とでも合う」
二人の実務家が、地下の松明の下で、ほんの一瞬同じ目の高さに並んだ。テオは腸詰を齧りながら、その光景を、なぜか少し頼もしく眺めた。書類の戦は、一人でするものだと思っていた。いつの間にか、卓の周りに人が増えていた。ポルツの後家の麦粥を、涸れ沢の底で啜った朝から、まだ半年と経っていないのが嘘のようだった。
*
その暦に行き当たったのは、三日目の午後だった。
二百年ばかり前の綴りの中に、古い南の暦が一冊、紛れ込んでいた。テオは物差しの候補として抜き出し、日付の欄を検めようとして――手が、止まった。
年の瀬に、見慣れぬ十三日ぶんの欄が、あった。
王国の暦なら、そこは空白のはずだった。年の終わりの、名を持たない十三日。テオが物心ついてから、暦のその一角はいつも白かった。日の名がない。数えもしない。俗に「決算」と呼ばれ、新しい契約を結んではならぬ、あの十三日である。
だが、この古い南の暦では、その十三日に、名前があった。
一日ずつ、律儀に。テオは指で追った。初日の名は――「灯を継ぐ日」。次が「粉を挽く日」。「糸を紡ぐ日」。「戸を閉ざす日」。素朴な、暮らしの手触りのする名が、十三並んでいた。最後の十三日目には、「名を返す日」とあった。
「ルチアさん」テオの声が、少し掠れた。「この暦の、年の瀬の欄に……名前が、あります」
「あるでしょうね」ルチアは覗き込みもせずに言った。「南の古い暦は、みんなそう。年の終わりの十三日にも、ちゃんと名前がついてた。うちの祖母なんか、いまでもこっそりその名で呼ぶわ。『糸を紡ぐ日に、繕い物を』ってね」
「王国の暦では」テオは、暦から目を離せなかった。「その十三日に、名前がありません。空白です。日の名を、数えません」
「知ってる。北へ行った公証人が、みんな不気味がる。『年に十三日、暦に穴が開いている国』ってね」
テオは、暦の十三の名を、もう一度上から下へ読んだ。灯を継ぐ日。粉を挽く日。糸を紡ぐ日。――どれも、誰かが名づけたものだった。名前は、ひとりでには生まれない。誰かが、その日を数え、その日に名を与え、その名で呼んだのだ。
名前があった日から、名前を、消す。
それは、忘れることとは違う。忘れた日は、名を失くしたことにも気づかない。だが王国の暦は、その十三日を、きっちり十三日と数えたうえで、名前だけを抜いてある。数は残し、名は消す。まるで、そこに何かがあったことは認めながら、それが何であるかを二度と呼べなくするために。
「……これは、忘れられたのでは、ありません」テオは、ようやく言った。地の底の冷えとは違う寒気が、背を這った。「消された、のです。誰かが、暦から、日の名を、一つずつ」
「建国のときよ」ルチアの声も、いつもの跳ねる調子を少し失っていた。「王国が暦を定め直したとき、南メリディアもそれに合わせさせられた。年の瀬の十三日から、名を落とせ、と。……理由は、誰も知らない。『そういう決まりだ』。北の人が、白い杭のことを訊かれたときに言うのと同じ答えよ」
古い契約のためだ。テオの耳の底で、峠の炭焼きの声が重なって鳴った。銘のない杭。名のない日。この国は、いくつのものから、わざと名を奪って造られているのだろう。
テオは、検認官として、その十三日を知ってはいた。新しい契約を結べぬ期間。俗に決算と呼ばれる、暦の穴。だが、なぜ結べぬのか、なぜ名がないのかを、テオは教本のどこにも読んだ覚えがなかった。ただ「そう定められている」とだけ。規則の理由を問うことを、テオはこれまでしてこなかった。規則は正しい。正しいものに、理由は要らない。ずっと、そう思って生きてきた。だが、この古い南の暦に並ぶ十三の名は、その「正しさ」の裏側に、誰かの手が――名を消すという、はっきりした意図の手が――畳み込まれていることを、静かに告げていた。正しさに、造り手がいる。造り手がいるなら、造り替えることもできるはずだった。その考えの行き着く先が恐ろしくて、テオは、まだそれ以上先へ進めなかった。
テオは、暦を閉じた。閉じた指が、少し冷たかった。名を返す日、という最後の一日の名だけが、瞼の裏に妙に長く残った。
*
その晩、ルチアは、いつもの隅の机で、鑑定を続けていた。
テオは、破棄命令書の写しを、もう一度様式の目で検めていた。発信の局課。整理番号。そして、その番号が指し示す破棄された相互写しの巻。北辺のいちばん北の巻。誰が、その巻を組合に寄託し、管理していたのか。組合の寄託台帳を繰れば、それはわかるはずだった。
繰った。そして、見つけた。
百年前まで、北辺の相互写しの寄託を管理していた家の名が、そこにあった。
スクリバーニ。
テオは、顔を上げた。隅の机で、ルチアの拡大鏡が、松明の火をちらりと弾いた。
「……あなたの、お家です」
「そう」ルチアは、手を止めなかった。声も、変えなかった。変えないことに、彼女がどれだけ力を込めているかが、かえって伝わった。「百年前まで、スクリバーニ家は相互写しの管理をする名家だった。王国と、各地の記録の、中立の預かり手。国が嘘をついたとき、それを検められる、たった一つの、外の棚。……それが、うちの家業だったの」
「百年前に、何が」
「偽造の罪で、潰れたのよ」ルチアの手が、ようやく止まった。拡大鏡を置く音が、隅の闇に、かたん、と落ちた。「ある年、うちの家が管理していた相互写しに偽の数字を書き込んだ、という嫌疑がかかった。国の記録と、うちの写しが食い違っている。片方が偽造だ。そして――偽造したのは、預かり手のスクリバーニだ、と」
「食い違い」テオは、その言葉を、北辺から百里も離れた南の地下でまた聞いた。石と、謄本。中央と、村。そして、中央と、相互写し。同じ形の食い違いが、この街の百年前にも口を開けていた。
「裁きは、速かった」ルチアは続けた。「うちの家は、公証人の資格を、以後永代、剥奪された。名家が、ひと冬で路頭に迷った。祖父の祖父の、そのまた親の代よ。以来、スクリバーニの名でこの街で印は捺せない。わたしが、組合の隅で名も出さずに下請けをしているのは――そういうわけ」
テオは、彼女の机の色とりどりの小瓶を思い浮かべた。あれは、家伝の道具なのだ。潰れた名家が、地下に埋めずに残した、ただ一つのもの。
「子供の頃はね」ルチアは、問われもしないのに、続けた。堰が少し切れたようだった。「うちには、鑑定の道具だけが山ほどあった。銀も、屋敷も、資格も、みんな取られたのに、道具と、家伝の書だけは誰も欲しがらなかった。贋作の見破り方なんて、まっとうな暮らしには要らないものね。……わたしは、その要らない書を、図書室で独りで読んで育ったの。捺せもしない印の、その真贋の見分け方ばかりこの街の誰よりも上手になった。捺せない者が、いちばん贋物に詳しい。皮肉でしょう」
「皮肉です」テオは、正直に答えた。
「でしょう」ルチアは、少しだけ、笑った。
彼女は、そこで初めてテオをまっすぐ見た。飢えたような、けれど、どこか醒めた目だった。
「家族はね、もう諦めてるの。百年よ。誰も家名なんか戻らないと思ってる。わたしだけ。わたしだけが、図書室に残ってた家伝の鑑定術を、独りで盗み読んで覚えた。……家のため、って言えば、みんな安心するからそう言ってるけど」ルチアは皮肉に唇を歪めた。「本当は、違う。わたしはただ、間違ったまま閉じられた帳面が我慢ならないだけ。百年、誰も検め直さなかった一件が。それだけよ、テオドーロ。功名でも、仇討ちでもない。……ただの、癇癪持ちなの」
テオは、その物言いを知っていた。石が三十歩と刻んでいるのに、謄本が五十歩と言い張っている――それを放っておけずに、夜明け前に縄を張りに出た、自分の癇癪と同じものだった。
*
「その断罪の記録は、残っていますか」テオは訊いた。
「公証の街よ」ルチアは少し驚いた顔をした。「裁きの記録は、みんな残ってる。うちの家を潰した判決も、除籍の告示も、一枚残らず。……見て、どうするの。百年前の判決なんて、もう」
「検認官の、癖です」テオは言った。「食い違いを見つけたら、封じる前に、必ず両方を並べて検める。……あなたのお家を裁いた、その一枚を見せてください」
断罪記録は、組合の判例の棚から出てきた。百年前の几帳面な公証人の手。スクリバーニ家が相互写しに偽の数字を書き込んだ罪により、公証人の資格を永代剥奪する旨。日付、署名、立会人。様式は、整っていた。北で見た、あの破棄命令書と、同じくらい整っていた。
テオは、それを、条文を読み上げるときの目で、一字ずつ検めた。
そして、止まった。
「……物証が、ありません」
「え?」
「偽造の断罪です。ならば、偽造された物――偽の数字を書き込まれた、その相互写しそのものが、証拠としてこの記録に添えられていなければならない。偽物だと断ずるなら、断ずる者が、その偽物を検めたはずです。ですが」テオは記録の一行を指した。「ここに、こう書いてあります。『当該相互写しは、破棄命令に基づき、既に除籍済みにつき、現物の呈示を要せず』」
地下の空気が、ふいに、動きを止めた気がした。
「破棄命令」テオは、その四文字の上で、指を止めた。「あなたが、北辺の棚の隙間で見つけた、あの破棄命令書。……この断罪の物証は、断罪と同じ頃に破棄されています。偽物だと断じられた相互写しは、偽物だと断じたその手が、検めるより先にこの世から消されている」
テオは、記録から顔を上げた。声が、自分でも意外なほど、静かだった。
「これは、検認ではありません。断罪ですら、ないのかもしれない。……検めていない罪で、家を一つ、潰している。証拠を、消してから」
北辺で、ライムントが竈税の台帳を均したときのことをテオは思い返していた。あの疲れた修正官は、家の控えを検めず、動かしやすいほうの数字を動かした。優しい顔をした、検めない手。そして、この百年前の断罪は、厳めしい顔をした、検めない手だ。片方は人を救い、片方は家を潰した。だが根は、同じだった。どちらも、検めていない。検めずに、紙の上の帳尻だけを合わせている。合わせた、とだけ、記録は語る。
ルチアは、動かなかった。長いこと、動かなかった。それから、ふいに、鼻をすすった。皮肉屋の面が、一枚、剥がれ落ちていた。
「……百年で」彼女の声が、掠れた。「あなたが初めてよ。うちの家の判決を、『検めていない』って言った人は。みんな、『気の毒に』とは言うの。でも、判決そのものを、間違ってる、とは、言わなかった。様式が整ってたから」
「様式は、真似られる、と」テオは、彼女の昨日の言葉を返した。「あなたが、教えてくれました」
ルチアは、笑おうとして、失敗したような顔をした。
*
話は、いつの間にか階上のオノフリオの耳にも入っていた。
翌朝、組合長はテオを自分の机の前に呼んだ。指輪の指を組み、いつものように数字から入った。
「うちの鑑定士が、北の検認官のために、地下で三日寝ずに働いておる。手当ては、誰が持つ。王国か。うちか」
「その相談を、私からも申し上げたかったのです」テオは、姿勢を正した。「ルチアさんの鑑定を、私は王立文書院の検認記録として、正式に扱いたい。検認官には、現地で得た証を検認記録に組み入れる権があります。彼女の鑑定は、ただの下請けの仕事ではなく、王国の記録の一部になります。――そのための、組合のお力を貸していただきたい」
オノフリオの、目の笑わない顔が、初めてわずかに動いた。
「……検認記録に。組合の鑑定を」彼は、指輪をひとつ、回した。「先生。あんた、それがどういうことか、分かって言っておるのか。百年前、この組合は、王国の相互写しを『破棄せよ』という命令に判も検めずに従った。中立の預かり手が、預かったものをみすみす消させた。組合の看板に、それ以来ずっと、染みが一つ、残っておる。誰も口にせんが、皆、知っておる染みだ」
「存じています」
「その一件を、いまさら王国の記録の中で、蒸し返すことになるぞ。組合が、百年前に間抜けだったと、天下に晒すことになる」
「はい」
オノフリオは、しばらく、テオを見ていた。それから、恰幅のよい体をゆっくりと椅子に沈めた。
「……手数料の話を、しよう」彼は言った。「うちが、この鑑定に組合の正式な保証を付ける。ルチアの鑑定を、組合公認とする。王国の検認記録に堂々と載せられる代物にしてやる。その手数料は――」
テオは、身構えた。銀貨で幾らを吹っかけられるか。リーケがこの場にいれば、と思った。
「――ただ、だ」
「は」
「無償だ」オノフリオは、初めて目の端で笑った。「うちの看板の、百年ものの染みを洗う仕事だ。よそから金を取る筋合いの話じゃない。……ただし、条件が一つ。組合の名にかけて、正しく検めろ。間違っていたら、恥の上塗りだ。中途半端は、許さん」
「検認官の、職分です」テオは、頭を下げた。
その日、テオが階下へ戻ると、リーケが柱に凭れて待っていた。話の顛末をどこかで聞いていたらしい。
「組合長が、無償で保証を付けたと?」彼女はめずらしく感心した声を出した。「あの、指輪だらけの守銭奴が」
「守銭奴ではありません。看板を、金より重んじる人です」
「同じことだ」リーケは腕を組んだ。「金より重いものを持ってる商人は、いちばん高くつく。安いのは、金で動く商人のほうさ。……ただし、忘れるな。あの無償には、値札が付いてる。『正しく検めろ』という値札が。しくじったら、あんたの信用で耳を揃えて払わされる」
値札のない親切ほど、高いものはない。テオは、その南の理屈を、また一つ帳面の外の欄に書き留めた。
*
その日の夕、ルチアが、鑑定を締めくくった。
物差しは、揃っていた。百年ぶんの、日付のわかる南の紙と墨。破棄命令書の写しは、そのどこにも収まらなかった。収まったのは、ただ一つの年代――百年前ではなく、その、ずっと後だった。
「確定よ」ルチアは、卓に、命令書の写しと、比べ物の紙を扇のように並べた。声から、皮肉が抜けていた。「この破棄命令書が漉かれた紙も、練られた墨も、百年前のものじゃない。ずっと若い。だからこれは、百年前に書かれた命令書じゃない。後になってから、百年前の命令書のふりをして書かれたもの。偽造よ。それも、腕のいい」
テオは、扇のように広げられた紙を、見下ろした。
「では――相互写しは」声が、乾いた。「百年前に、破棄命令で除籍された、のではなく」
「破棄命令が、後から偽造されたのなら」ルチアは、テオを見た。「百年前に、正しく破棄された、という事実そのものが無いことになる。誰かが、後になって破棄されたことにしたの。命令書を、一枚、こしらえて。棚に、木札を、一つ、差して」
地下の松明が、じ、と鳴った。
「相互写しは、破棄されたんじゃない」ルチアの声が、低く落ちた。「破棄されたことに――されたのよ」




