第六話 昼餐は経費で落ちない
白い杭の線を背にしてから、テオドール・ブレンナーは検認地を三つ黙々と検めた。
石と謄本は三つのうち二つで、また食い違った。外れているのはいつも中央の謄本のほうで、向きは北。北辺に沿って東西に延びる帯はまだ続いていた。テオはそのつど拓本を採り、控えを一枚余分に写し、封緘して行李の底へ収めた。逓送には、託さなかった。手を離れた紙が道中でどう扱われ得るかを、テオはもう十分に知っていた。
ポルツの三号石の一件だけは、別あつかいだった。拓本と、縄の実測値と、村の台帳の写しと照合の経過を一綴りにした、あの立会検認調書である。それだけは公用行嚢のいちばん底に納め、昼は荷の底、夜はリーケが枕の下で番をした。ミュールバッハで控えを二枚抜かれ、その書き直しを外套の背裏に縫い込んだ夜のことを思えば、この一綴りだけは片時も身から離す気になれなかった。
だが、石を検めるほどに、テオの手のうちには肝心のものが一つも増えなかった。石は正しい署名で「三十」と刻み、謄本は正しい署名で「五十」と刻む。どちらも王国の認めた正しさで、どちらかを誤りと決める権は検認官には無い。ポルツの床下で会った三通目の控えは、石の言い分を裏づけはしても、中央の謄本を裁く紙ではなかった。村の控えはしょせん村の側の証人である。
テオが着任の夜からずっと欲しがっていたのは、そういう紙ではなかった。石にも、村にも、中央にも与しない、どこにも属さぬ第三の写し。三十と五十のどちらが元の姿だったかを、上から検められる一冊。角灯の下で「その三冊目は、どこにあるのですか」と問うたあの空白は、食い違いを四つに増やしたいまも、埋まっていなかった。
その三冊目の在りかに心当たりがついたのは、文書監の特命を五度目に読み返した晩のことである。
――検認の完遂に必要と認める照合のため、路線外への往還を、検認官の裁量に委ねる。
路線外への往還を、裁量に。文書監の素っ気ない手は、そこに確かに一つ、逃げ道を書き込んでいた。テオはこれまで、規程を読むとき、まず「してはならぬこと」を数える癖があった。だが規程には、「してよいこと」もたいてい同じ数だけ書いてある。ただ、探し方をこれまで知らなかっただけだ。
照合のため。何と何を、照合するのか。石と謄本なら、もう照合した。足りないのは、三冊目だった。そして三冊目の在りかに、テオは一つ覚えがあった。
相互写し。研修のいちばん退屈な講義で、名だけ聞いた制度である。かつて王国の枢要な記録は、中央台帳のほかに、国の外の中立な第三者へ、写しを一部預ける習わしがあった。国が己の記録を己ひとりで抱えていては、国が誤ったとき、正す者がどこにもいなくなる。だから、商いと公証を生業とし、王国の役所に義理も貸しもない者へ写しを託した。南メリディアの公証人の組合である。国の記録を、あえて国の外の床下に、一冊。
「南へ、下ります」翌朝、テオは荷を積みながら言った。「カルタヴィア。南メリディアの公証都市です」
「北の石を検めに来て、南へ下るのか」リーケは眉を上げた。「その裁量とやら、ずいぶん伸び縮みするな」
「規程の中に、書いてあります」テオは特命の別紙を指した。「増額された枠に、路線外往還の飼葉と渡し賃が初めから立ててあります。文書監は、私が南へ下ることを見越して枠を取っている。……私は、その枠の内側を歩くだけです」
「見越して枠を取る」リーケは別紙を陽に透かした。北辺で砥石を勝ち取った、あの別紙である。「そりゃ、あたしの流儀だ。枠を広く取って、但書で逃げ道を作る。……この文書監、いよいよ気に入らんな。……いや、気に入った」
「どちらですか」
「両方だ」
修正官のライムントは、南へはついて来なかった。
「巡回支援は、北部路線の検認に係るものでしてな」出立の朝、彼はいつもの疲れた敬語で言った。「路線の外まで修正官が付いてまいる様式は、ございません。私は、北辺に残ります。均すべきものは、こちらに、まだいくらでもありますのでな」
様式のうえでは、非の打ちどころのない挨拶だった。ただ、去り際に一度だけ、彼は振り返った。
「検認官殿。南は、紙の値打ちが、北とは違いますぞ。……よい照合を」
よい照合を、の五文字が、餞なのか、それとも別の何かなのか、テオには最後まで量れなかった。量れないまま、様式に無い者の背中は、北の道へ遠ざかっていった。
南への道は、長かった。北辺から王都の脇を抜け、さらに南へ。官道を下り、大河で船を三度も継いで、ひと月あまりの旅である。北へ向かうにつれて硬く乾いていった風景が、逆しまに日ごとに緑を濃くし、水を増やし、そして暑くなった。ポルツで麦が若かった季節は、とうに過ぎていた。船縁から手を垂らせば、河の水は、生ぬるかった。
「坊や」船の上で、リーケが目を細めて南を見た。「南は、金の使い方が北とは違う。覚悟しとけ」
「経費の話ですか」
「経費の話だ」リーケの声に、めずらしく、うっすらと諦めの色があった。「北は、石みたいに金を使う。動かん。南は、水だ。指の間から幾らでも漏れる。……あたしは、北のほうが好きだ」
その言葉の重みを、テオは、カルタヴィアの船着き場に降り立った最初の四半刻で理解することになる。
*
カルタヴィアは、水の上に建っていた。
街の背骨を運河が貫き、その両岸に、石の館が肩を寄せて建ち並ぶ。橋、また橋。荷を積んだ小舟が櫂で水を掻き、互いに罵り合いながらすれ違う。北辺の村なら一日でも聞かぬほどの声が、この街では一つの橋の上で交わされていた。売り声、値切り声、笑い声、祈りの鐘。空気は、香辛料と、水の匂いと、揚げ物の脂でむっとするほど濃かった。
「――荷を、お運びしましょう、旦那がた」
船を降りるより先に、褐色の肌の少年が三人、行李に手をかけていた。テオが礼を言う間もなく、行李は四つとも少年たちの肩に載り、七号の手綱までいつの間にか四人目の少年が握っていた。手際がよい。よすぎた。
宿までは、目と鼻の先だった。にもかかわらず、宿の前に着くと、少年たちは荷を下ろし、手のひらを揃えて上に向けた。
「心付けを」いちばん年かさの少年が、白い歯を見せた。「四人ぶん」
「……運び賃なら、お支払いします」テオは財布を探った。「幾らですか。領収書を、いただけますか」
少年たちが、顔を見合わせて笑った。心の底からおかしい、という笑い方だった。
「領収書?」
「領収書です。どなたが、何を、幾らで運んだか。それを一枚――」
「北の人だ!」年かさの少年が、仲間に向かって叫んだ。まるで珍しい鳥でも見つけたように。「北の人だぞ! 心付けに、判子を捺せってさ!」
どっと笑いが起きた。少年たちだけではない。宿の主人も、隣の果物売りも、橋の上の見物人までが、テオの手の中の財布を見て笑っていた。テオは、財布を握ったまま、笑いの真ん中に立ち尽くした。台帳に載らない事態だった。この街では、金を払うのに証が要らないらしい。金は、笑い声と一緒に、指の間から水のように漏れていくものらしかった。
リーケが、前に出た。
少年たちの前に立ち、腰に手を当て、上から下まで一人ずつ検分した。それから、指を四本立てた。
「四人で、この距離だ。心付けは、一人あたり麺麭半切れ分が妥当だな。四人で銅貨二枚。それ以上は、盗みだ」彼女は少年の一人の、日に灼けた腕を軽く小突いた。「おまえ、四人目だな。手綱を握っただけで、荷は担いどらん。おまえのぶんは、麺麭の耳だ」
少年たちが、今度は別の顔で笑った。値踏みされて、値を返された者の顔だった。年かさの少年が、肩をすくめた。
「北の護衛は、目が利く」
「街道で二十年、この目で飯を食ってる」リーケは相場どおりの銅貨二枚を、年かさの少年の手に落とした。「四人で、きっちり分けろ。それで、うまいものでも食え。――で、受取は?」
「無いよ」少年は肩をすくめた。「南じゃ、心付けに受取を書くのは、相手を泥棒扱いすることだ。無粋の極みさ」
少年たちは、銅貨を握りしめ、笑いながら橋の向こうへ駆けていった。あとには、受取のない支出が四つと、怒りで赤くなったリーケと、途方に暮れたテオが残された。
「……帳尻が」リーケの声が、低く震えていた。「合わん。四つも、証憑のない穴が、開いた」
「南の、風習のようです」
「風習で、帳簿は締められん」
*
南の三日で、リーケは十も歳を取ったように見えた。
この街には、値札というものが無かった。同じ果物が、朝と昼とで値が違い、北訛りと聞けば、さらに違った。宿代は北辺の三倍で、しかも「良い部屋だから」「風が通るから」「今日は祭りだから」と、日ごとに理由をつけて上下した。渡し賃、案内料、水売り、日陰を貸す軒先の主にまで、心付けが要った。そして、そのどれ一つとして紙の証を残してくれなかった。
「野暮なことを、おっしゃる」宿の主人は、受取を求めるテオに、憐れむような笑みを向けた。「北のお役人さまは、お互いをそんなに信じておられぬのか。心付けというのはね、旦那。信用で渡すものですよ。紙が要るようなら、それはもう、心付けではない」
「信用は、証憑になりません」
「南では、信用がいちばんの証憑でさあ」
極めつけは、二日目の広場だった。テオが案内料の受取を求めて、案内人の袖をつかんで放さずにいると、たちまち人だかりができた。
「北のお役人が、心付けに証文を書けと言うとるぞ!」
誰かがそう囃すと、広場じゅうが沸いた。飴売りがテオを指さして子供に何か吹き込み、子供らは「判子、判子」と囃しながら、テオの周りをぐるぐる回った。南の民にとって、王国の紙好きは、旅の軽業師より上等な見世物であるらしかった。
「北の国はな」年老いた飴売りが、親切のつもりで教えてくれた。「役人が三人がかりで、一枚の紙を三度読むそうじゃないか。読み終わる頃には、頼んだ用事は、季節が変わっとると」
照合印が、三つ。テオは、思わず北辺の謄本の頁の隅を思い出した。三人の照合官が読み合わせて捺す、あの三つの印。この街の飴売りは、それを笑い話として知っていた。三人がかりで三度読んだ数字が、それでも北辺で五十歩ずれていたことは、むろん、知らなかった。
テオには、返す言葉が無かった。この街の論理は、テオの規程集のどの頁にも載っていなかった。北では、印が利くか利かぬかで、真偽が決まる。捺した本人しか解けぬ封が、嘘を通さぬ。だが南では、印の代わりに、笑顔と握手と口約束が回っていた。それで千年、街が回ってきたのだという。テオの中の分類棚が、収め場所を探して、また軋んだ。
リーケは、三日目の夕、宿の卓に領収書の束を広げ、腕を組んでじっと睨んでいた。北辺から持ち越した、几帳面な束である。その隣に、南で開いた証憑のない穴の一覧が、みるみる伸びていた。
「坊や。この街には、印が無いのか」
「あるはずです」テオは考え込んだ。「これだけの商いが、口約束だけで回るとは思えません。大きな取引には、必ず証を立てる仕組みがある。……そうだ。公証人です」
「こうしょうにん」
「南メリディアは、公証の街です」テオは、自分の言葉の中に、探していたものが二つとも入っていることに気づいた。「北の認め印にあたるものを、南では、公証人という他人が代わりに立てる。取引に立ち会い、間違いなく行われたと、公証人が己の印で証す。……リーケさん。この街で正しい証憑を取りたければ、公証人のところへ行けばいいのです」
「なら、初めからそう言え」リーケは立ち上がった。「その公証人とやらは、どこにいる」
「公証人の、組合があります」テオも立ち上がった。声が、我知らず、少し弾んでいた。「私が、南へ下ってきた理由も――そこにあります」
*
公証人組合の会館は、いちばん大きな運河の畔に、白い石で建っていた。
北の役場のように、扉が閉ざされてはいなかった。一階は、市場のように開け放たれ、机がずらりと並び、公証人たちが、市民の持ち込む証文に次々と印を捺していた。土地の売買、船荷の請け、婚姻の約束、遺言。北なら村役場と教会と裁きの庭に分かれる用事が、この街では、一つ屋根の下で金と紙とで捌かれていた。
テオが来意を告げると、若い書記は、奥の階へ通してくれた。
「組合長が、お会いになるそうです。北の、王国の検認官さまとあれば」書記は、悪びれずに笑った。「珍しいお客だ。北の方は、何にでも判子を捺したがると、評判ですから」
テオは、返す言葉を、また一つ失った。
組合長オノフリオ・ダ・カンパーナは、恰幅のよい、目の笑わない男だった。天鵞絨の上着に、指輪をいくつも嵌め、机の上には算盤に似た計算器が置かれていた。挨拶より先に、彼は数字から話しはじめた。
「北から、ひと月。船が三度。飼葉が――そちらのラバ、よく肥えている。いい飼葉を食わせているな。旅費は、ざっと銀貨で四十枚といったところか。王国は、それだけの金を使って、うちに何をさせに来た?」
「相互写しを、拝見したいのです」テオも、遠回りをしなかった。「王国北辺の境界記録の、相互写し。かつて、貴組合に寄託されていたはずのものです」
オノフリオの指輪が、机の上で、いちど止まった。
「……北辺の、相互写しを」彼は、指の一本で、こめかみを掻いた。「先生、あんた、いい趣味とは言えんな。百年、誰も読みに来なかった棚だ。埃で、喉をやられるぞ」
「あるのですね」
「あった、と言うべきかな」オノフリオは立ち上がった。「面倒な話は、現物を見てからにしよう。うちのいちばん腕のいい鑑定士を付ける。……その前に、先生」彼は、階下を、指輪を嵌めた指で示した。「あんたの連れの、あの赤毛。さっきから、うちの公証人を一人、質屋の番頭みたいにこき使っておるぞ。あれも、北の流儀かね」
*
階下では、リーケが公証人を一人、卓の前に座らせて、逃がさぬ構えでいた。
卓の上には、南で開いた「証憑のない穴」の一覧が広げられている。荷運びの心付け、渡し賃、案内料、水売り。リーケは、その一つ一つを指で押さえながら、公証人に迫っていた。
「あたしは、確かにこれだけ払った。相手が受取を書かん風習なら、書ける者に書かせる。あんたは、公証人だろう。取引を見て、証を立てるのが仕事だ。なら、あたしの支払いを、あたしの申立てとして、証してくれ。『この者、確かにこれだけを、この街で費やせり』と」
「し、しかし、私は、その支払いの場に、立ち会っておりませんので」公証人は、汗を拭いた。北辺の主計官が、リーケの仮払願を三度書き直させられた末に泣いた、あの顔とどこか似ていた。「立ち会わぬ取引は、公証人には、証せませぬ」
「なら、いま立ち会え」リーケは、財布から銅貨を一枚出し、卓に置いた。「これは、あんたへの心付けだ。あたしはいま、あんたに心付けを払った。その場に、あんたは立ち会っている。まず、それを証せ。話は、そこからだ」
公証人は、しばらく、その銅貨を見つめていた。それから、腹の底から、笑い出した。南の、水の匂いのする笑いだった。
「北の護衛どの。あんた、公証人に向いておるよ」彼は、涙を拭いながら印を執った。「よかろう。あんたの申立てを、あんたの署名で証す。ただし、中身の真偽までは、証さん。『この者、かく申し立てり』まで。それが、公証の作法だ」
「それでいい」リーケは、この街に来て初めて、満足そうに頷いた。「あたしが確かに払った、という事実が、あたしの名で一枚残ればいい。真偽は、帰任後に王都の主計官が検める。……ようやく、南で帳尻の逃げ道が見えた」
テオは、階段の途中から、その一部始終を見ていた。北では、印が真偽を封じる。南では、公証人が申立てを証す。作法は、まるで違う。だが、根はどうだろう。誰が、いつ、何を言ったかを、後から検められる形に畳んでおく――していることは、リーケが北辺の街道で、灰の親指一つでやってのけたことと、寸分違わなかった。灰も、公証人の印も彼女の手にかかれば、同じ一つの帳尻に化けた。
書類に全力で無関心なはずのこの女が、なぜ、金の話になると、こうも軽々と国境をまたぐのか。テオには、やはりうまく説明ができなかった。
オノフリオが、後ろから階段を降りてきて、テオの肩を叩いた。
「鑑定士は、そこの隅だ」彼は、会館のいちばん光の乏しい一角を、指輪の指で示した。「ルチア! 北のお客だ。北辺の相互写しを、見せて差し上げろ」
返事の代わりに、その隅から、盛大な溜息が聞こえた。
*
ルチア・スクリバーニは、二十歳を四つ越えたくらいの、痩せた女だった。
インクの染みだらけの前掛けをして、机には、拡大鏡と、色の違う液体の入った小瓶が、数えきれぬほど並んでいた。組合の公証人たちが陽の当たる机で客をさばく傍らで、彼女ひとりが、日の射さぬ隅で、古文書の切れ端に鼻を近づけている。公証人の胸には、みな組合の資格の徽章が光っていたが、彼女の前掛けには、それが無かった。組合に籍を置きながら、公証人にはなれない。ルチアの仕事は、公証人たちの手に負えぬ鑑定を、名も出さずに引き受ける下請けだった。腕は、会館の誰よりも良い。それは、陽の当たる机の公証人たちも認めるところだった。
「相互写し? 北辺の?」彼女は顔も上げずに言った。早口で、南訛りが強く、語尾がいちいち跳ねた。「あの棚、湿気てるのよ。開けるたびに、わたしの寿命が一日縮む。組合長、手当てを弾んでくれるんでしょうね。最悪よ」
「客人だ、ルチア。北のお役人さまだぞ」
「北の」ルチアは、そこで初めて顔を上げた。値踏みするような、けれどどこか飢えたような目が、テオを検分した。「役人。判子の。……インクの匂いはしないわね。あなた、自分でものを書く人だ。組合長の書記みたいに、人に書かせてる手じゃない」
「テオドール・ブレンナーです。王立文書院の、記録官です」
「テオドーロ」彼女は勝手にそう呼んだ。「で、テオドーロ。北辺の相互写しの、何が見たいの。あの棚に埋まってるのは、百年前で時間が止まった紙よ。境界石の、寸法と、方角と、署名。それだけ」
「その、それだけが、見たいのです」テオは、つい癖で付け足した。「――王国では、この石を、グレンツシュタインと呼びます。境の、石。それだけの意味の、古い言葉です」
「グレンツシュタイン」ルチアは片眉を上げ、耳慣れない響きを鼻で転がした。「北の人は、石にまで役所みたいな名前をつけるのね。……こっちじゃ、ただの石よ」
それから、溜息をもう一つついて、拡大鏡を前掛けの隠しへ落とし、立ち上がった。案内する、という意味らしかった。
地下の書庫は、なるほど、湿気ていた。松明の火が、じっとりした空気の中で鈍く燃えた。棚は、北辺の路線ごとに分けられ、埃の積もり方で、何十年、誰も触れていないかが分かった。ルチアは迷いなく一つの棚の前に立ち、指で背表紙をなぞり――そして、その指が、一箇所で空を掻いた。
棚に、隙間があった。
ちょうど一巻ぶん、綴りが、抜けていた。
「無い」ルチアは眉をひそめた。「北辺の、いちばん北の巻が、無い」
彼女は棚を検め、隙間の下の小さな木札を引き抜いた。抜き取られた綴りの、代わりに差されていた木札だった。そこには、几帳面な公証人の手で、こう記されていた。
――本巻、破棄命令に基づき、除籍。
「破棄?」テオは木札を覗き込んだ。「相互写しを、破棄? ……そんなことが、あるのですか。中立の第三者に預けた写しを、破棄しては、寄託の意味が」
「あるわけないでしょ」ルチアは吐き捨てた。「相互写しは、破棄しないためにあるの。国が己の記録を焼いても、うちの棚に一冊残る。それが値打ちなのよ。それを破棄するなんて、井戸に蓋をして、渇いて死ぬようなものよ。……でも、ほら」
彼女は、木札の裏を返した。もう一枚、命令書の写しが、貼りつけてあった。
「命令書が、ある。ちゃんと様式どおりに。だから、破棄された。百年前に」
*
その命令書の写しを、テオは会館の一階の、いちばん明るい机であらためて検めた。
様式は、整っていた。北辺の相互写し一巻を、寄託の解除により破棄する旨。発信の局課があり、整理番号があり、日付があった。日付は、ちょうど百年前――第三回大検認のその翌年だった。
「様式に、瑕疵はありません」テオは、認めた。声が、自分でも情けないほど、沈んだ。「破棄命令として、これは、成立しています。……三冊目は、百年前に無くなっていた」
北辺から、ひと月あまり。船が三度。銀貨四十枚。それだけの枠を歩いて、たどり着いた棚には、隙間が一つ、開いていた。テオが着任の夜から探してきた第三の写しは、テオが生まれるより前に、正しい様式の一枚によって、この世から消されていた。
テオは、命令書の写しを机に置いた。置く指に、力が入らなかった。
その紙を、横から、ひょいと取り上げた者がいた。ルチアだった。
彼女は、命令書の写しを、松明ではなく窓の外の陽にかざした。羊皮紙の繊維が、光を透かして蜘蛛の巣のように浮かび上がった。ルチアは、それをしばらく透かして見ていた。次に、鼻を近づけて、匂いを嗅いだ。それから、拡大鏡を取り出し、文字の、墨の載り方を、一字ずつなぞるように検めた。
テオは、その様子を見ていた。北の検認官が石の銘を読むときと、同じ目だ、と思った。彼女は、書かれた中身を読んでいない。紙そのものを、読んでいた。
「様式は、整っています」テオは、つい、口を挟んだ。「日付も、整理番号も、局課も。破棄命令として、これは――」
「様式ね」ルチアは、紙から目を離さずに、鼻で笑った。「あなたたち北の人は、それだから駄目なのよ、テオドーロ。様式は、真似られる。腕のいい贋作師なら、一晩でそっくりに写す。真似られないのは、こっちよ」
彼女は、拡大鏡の先で、墨の一点を指した。
「紙と、墨。物は、嘘をつけない。文字のほうは、いくらでも嘘をつくけれど」
それきり、ルチアは黙り込んだ。長い、鑑定の沈黙だった。テオは、口を閉じて待った。北の窪地で、拓本の墨が乾くのを待つのと、同じ辛抱だった。
「……テオドーロ」やがて、ルチアが言った。
早口が、止まっていた。
カルタヴィアの午後の光が、羊皮紙の繊維を、金色に透かしていた。
「この命令書ね。書かれたのは――百年前じゃないわ」




