第99話 太陽と新しい約束
腕の中で泣きじゃくる彼女の背中を、俺は溢れる愛おしさを込めて、何度も優しくさすった。
どれくらいそうしていただろうか。
やがて松岡先生の肩の震えが小さくなり、小さく鼻をすする音が聞こえた。
「……高橋くん、ごめん。シャツ、濡らしちゃった……」
俺の胸元に顔を埋めたまま、彼女が消え入るような声で呟く。
俺は少しだけ腕の力を緩め、彼女の小さな肩に手を置いたまま、ゆっくりと身体を離した。
街灯の下、涙で睫毛を濡らし、鼻の頭を真っ赤にした彼女が、ひどく照れくさそうに俺を見上げている。
その顔を見ていたら、愛しさが限界を超えて、自然と笑みがこぼれてしまった。
「な、何笑ってるの……。私、今すごいみっともない顔なのに……」
「いえ。やっぱり先生、泣き顔も可愛いなと思って」
「……っ、もう! 本当にからかわないで!」
ぷっと頬を膨らませる彼女の手を、俺はもう一度、今度は逃げられないようにしっかりと握り直した。
彼女は一瞬ビクッとしたけれど、今度は手を引き抜こうとはしなかった。
少し冷たい夜風が、俺たちの間を吹き抜けていく。
お互いの体温が、繋いだ手のひらを通じてじわじわと伝わってくる。
「松岡先生。……ううん、沙織さん」
初めて口にする彼女の下の名前。その響きに、彼女がハッとしたように目を見開く。
「俺の気持ちは、さっき伝えた通りです。年の差も、元教え子だってことも、俺にとってはあなたを諦める理由には絶対になりません。これからの俺の人生の隣には、あなたにいてほしい」
俺は一呼吸置き、彼女の瞳の奥をまっすぐに見つめて、最後の一歩を踏み出した。
「俺と、付き合ってください。一人の男として、あなたをずっと支えさせてほしいです」
もう、揺るぎない確信に満ちた声だった。
松岡先生――沙織さんは、潤んだ瞳でじっと俺を見つめ返していた。
その目には、さっきまで彼女を縛り付けていた『先生』としての迷いや躊躇いは、もうどこにも残っていなかった。
彼女は小さく深呼吸をすると、繋いでいない方の手で、大切そうにバッグの中のファイルをきゅっと握りしめた。
あの金魚の栞が、十年の時を経て、ようやく俺たちの本当の恋の始まりを見届けてくれている気がした。
そして、彼女は涙の跡が残る頬を緩め、世界で一番優しくて、少しだけはにかんだ笑顔を咲かせた。
「……はい。よろしくお願いします、高橋くん。……ううん、海くん」
あの日、プールサイドで、調理室で、あの木陰で。
ずっと届きそうで届かなかった彼女の本当の笑顔が、今、俺の目の前で完全に開花した。
「私、料理しか取り柄がないし、ちょっと食いしん坊だし、頼りない先輩だけど……。でも、あなたの隣にいさせてください」
「望むところです」
俺が微笑むと、彼女は嬉しそうに、今度は自分から、俺の手のひらをぎゅっと強く握り返してきた。
十年前のあの夏、恋という言葉さえ知らなかった少年と、優しく見守るだけだった先生。
長すぎた遠回りを終えて、俺たちの手は、今度こそ離れることのない強い力で結ばれた。
並木道の向こう、駅の灯りが夜空を明るく照らしている。
新しく始まった俺たちの未来へ向かって、俺は彼女の手を引いて、ゆっくりと歩き出した。




