第100話 太陽とともにスタート台へ
繋いだ手のひらから伝わる温もりは、どこまでも心地よく、奇跡のように温かかった。
ゆっくりと歩きながら、俺たちは並木道の端にある小さな公園のベンチに、並んで腰を下ろした。
夜風が優しく吹き抜け、彼女の抱えるバッグの中で、あの金魚の栞のファイルが小さく音を立てる。
松岡先生――沙織さんは、まだ少し赤くなった目のまま、繋いだ俺の手を愛おしそうに見つめていた。
「……ねえ、海くん」
彼女は少し照れくさそう、微笑んだ。
「私、本当に夢みたい。十年前のあの卒業式の日に、中庭で走ってあなたを追いかけた私が、まさかこんな未来に繋がってるなんて思わなかったよ」
「俺もですよ。あの時、仕事中なのにわざわざ走ってきてくれて、ツーショット撮ったの、めちゃくちゃ嬉しかったです」
「あはは、あの時は鬼頭先生に怒られないかヒヤヒヤだったんだから!」
楽しそうに笑う彼女の顔を見ていたら、愛しさが胸の奥から溢れて止まらなくなった。
俺はポケットからスマホを取り出し、画面を起動する。
「沙織さん。……もう一回、ツーショット撮りません? 今度は、あの時みたいに遠慮しなくていいやつ」
「えっ、今!? 私、さっき泣いちゃったから目が赤いよ……?」
「大丈夫です。世界で一番可愛いですから」
「もう、そういうことをサラッと言うんだから……!」
沙織さんは真っ赤になって抗議しながらも、嬉しそうに俺のすぐ隣へと身体を寄せた。
十年前のあの春、中庭で一瞬だけ触れた肩の距離。
今は、その距離なんて最初からなかったかのように、お互いの肩と腕がぴったりと密着している。
触れ合う肌の熱さが、2人の距離が「先生と生徒」から「男と女」に変わったことを、何よりも確かに教えてくれた。
「ほら、笑って」
カメラを構えた俺の腕に、沙織さんはごく自然に自分の両手を絡め、俺の肩にコトンと頭を預けてきた。
画面に映る彼女は、十年前のあの日に負けないくらいの、最高に幸せそうな、甘い「彼女」の笑顔を作っている。
カシャ、と静かな夜の公園にシャッター音が響いた。
「……うん、最高の写真。これ、あとで絶対に送ってね?」
画面を覗き込みながら、沙織さんは嬉しそうに目を細めた。
寄り添う彼女の肩から、髪から、あの十年前の調理室でも、夏のプールサイドでも感じていた、大好きな甘い匂いがふわりと鼻をくすぐる。
画面を見つめる彼女の横顔をじっと見つめていると、気づいた沙織さんが「ん? どうしたの?」と不思議そうに俺を見上げ、その唇を小さく綻ばせた。
その瞬間、もう、我慢の限界だった。
「沙織さん」
「えっ――」
驚いて目を見開いた彼女の、優しく添えられていた両手をそっと包み込みながら、俺は迷わずに顔を近づけた。
一瞬、沙織さんの長い睫毛が小さく震えて、それから諦めたように、愛おしそうにそっと瞼が閉じられる。
静かな夜の公園で、俺たちはゆっくりと唇を重ね合わせた。
触れ合った唇は、あの日、県大会の木陰で触れたあの小さな小指の先よりも、ずっと、ずっと温かかった。
十年間、ただ遠くから追いかけることしかできなかった背中。
触れたくて、でも触れられなくて、胸の奥に仕舞い込み続けてきた恋心が、熱い体温となって彼女の中に溶けていく。
一度離れた唇が、どちらからともなくもう一度、今度は確かめ合うように深く重なり合う。
沙織さんの指先が、俺のシャツの胸元を、きゅっと愛おしそうに握りしめていた。
やがて、ゆっくりと顔を離すと、街灯の光に照らされた沙織さんの顔は、これ以上ないほど真っ赤に染まっていた。
微かに潤んだその瞳で、本当に幸せそうに、とろけるような笑みを浮かべている。
「……本当に、海くんは、カッコよくなりすぎだよ。完璧に後悔させられちゃった」
彼女は照れ隠しのように俺の胸におでこをぽんと預けて、それから、まっすぐに俺を見つめて微笑んだ。
「これからも、私の隣で、ずっと一緒に歩いていこうね」
「……はい。ずっと隣にいます、沙織さん」
十年前、彼女の背中を見送りながら始まった俺の長い夏は、今、これ以上ない鮮やかな光に満ちて、最高の終わりと始まりを迎えた。
繋いだ手をもう一度きゅっと握り締め、俺たちは新しく始まる毎日に向かって、ゆっくりと立ち上がった。
見上げた夜空は深く澄み渡り、暗闇が広がっている。
けれど、繋いだ手のひらの熱さと、目の前で愛おしそうに綻ぶ彼女の笑顔が、俺の胸の奥にある『あの夏の日の太陽』を、いつまでも、どこまでも眩しく照らし続けていた。
【太陽編 第二部完】
ここまで本作をお読みいただき、本当にありがとうございました。
『太陽に教わり、月と追いかけ、星に見送られて』は、これにて完結となります。
100話。
最初にこの物語を書き始めたとき、まさか自分が一つの作品を100話まで書き切ることになるとは思っていませんでした。
そして、この作品は僕にとって初めて完成させた長編小説です。
水泳部を舞台に、中学最後の夏から始まった高橋海の物語。
太陽のような松岡先生。
月のように寄り添ってくれた佐伯先輩。
星のようにまっすぐ見つめ続けてくれたなぎさ。
三人それぞれとの未来を、一つの結末だけで終わらせず、それぞれの「もしも」の先まで描いてみたい。
そんな思いから、この作品は【月編】【星編】【太陽編】という三つのルートへ分岐する物語になりました。
どのルートにも、それぞれ違った恋があり、それぞれ違った青春がありました。
そして100話を書き終えた今、三つの未来すべてが、僕にとって大切な物語になっています。
もちろん、読んでくださった皆様の中には、
「このルートが好きだった」
「このヒロインを応援していた」
「この結末が一番よかった」
と、それぞれ違った感想があると思います。
もし三つの物語の中に、少しでも心に残った恋や場面があったのなら、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
初めての長編ということもあり、振り返れば拙い部分もたくさんあります。
それでも、こうして100話という長い物語を最後まで書き切ることができました。
ここまでお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました。
高橋海たちの青春は、ここで幕を閉じます。
けれど、この100話を書いた時間と、彼らと一緒に泳いだ時間は、僕にとって忘れられないものになると思います。
そして、これで僕の物語が終わるわけではありません。
すでに次の物語たちも準備しています。
これからも青春や恋愛を中心に、また新しい物語を書いていくつもりです。
いつかまた、どこかで僕の作品を見つけていただけたら嬉しいです。
そのときは、今回とはまた違った物語を楽しんでいただければと思います。
それでは、また次の物語で。
『太陽に教わり、月と追いかけ、星に見送られて』
最後までお読みいただき、本当に、本当にありがとうございました。




