第98話 太陽とその轍をなぞって
「松岡先生」
俺は、彼女の言葉を遮るように、静かに、けれど一歩も退かない覚悟を込めてその名前を呼んだ。
一歩、彼女との距離を詰める。
「世間体なんて、どうでもいいです。教え子じゃなくて、一人の男として、俺はあなたがいいんです」
一度拒まれたくらいで、折れるような十年じゃない。
俯く彼女の視線を捉えるように、俺はもう一度、その小さな肩をまっすぐに見つめた。
俺の言葉に、松岡先生はさらに激しく首を振った。涙で濡れた瞳を背け、頑なに俺と視線を合わせようとしない。
「そんなの、高橋くんの若さゆえの勢いだよ……っ。これからもっとたくさんの人と出会って、いろんな世界を知ったら、私なんか――」
「勢いなんかじゃない!」
夜の並木道に、俺の声が低く響いた。驚いたように肩を跳ね上げる彼女の前に、一歩、強く踏み出す。
「覚えてませんか。十年前の冬、進路指導室の前で俺が推薦を断って、公立高校のパンフレットを出した時のこと」
「え……?」
「あの時、そこが先生の母校だって知ってて、俺は進学を決めたんです。とぼけましたけど、本当は先生がどんな場所で学び、どんな景色を見てあの優しい人になったのかを知りたくて、必死に勉強して、追いかけた。……俺はずっと、十五歳から、先生のことだけを追いかけてここまで来たんです。年齢がなんだって言うんですか。教え子だからって、何がダメなんですか」
一気に捲し立てた俺の言葉に、松岡先生は息を呑んだまま固まった。
抱きしめたファイルを持つ指先が、ガタガタと震えている。
「十年経っても、俺の気持ちは1ミリも変わっていません。……絶対にあきらめないですよ、俺は」
真っ直ぐに、引くことのない確信を込めて告げる。
その瞬間、彼女の張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ落ちるのが分かった。
「……ズルいよ、高橋くん」
松岡先生の口から、嗚咽混じりの掠れた声が漏れた。
彼女は顔を覆うようにして、堪えきれなくなった涙をボロボロと流しながら、感情を爆発させるように俺を見上げた。
「ズルいよ……そんなこと、今さら言われたら、もうどうしようもないじゃない……っ!」
それは、「先生」としてではない、初めて見る、一人の女性としての彼女の、剥き出しの本音だった。
「私だって……私だって、ずっとずっと、高橋くんのこと特別に思ってたよ……! でも、先生だから、年上だからって、私だけ必死に我慢して……私だけ諦めようとして、私だけこの気持ちを忘れようとして、今日だって必死に言い訳して自分にブレーキかけてたのに……っ!」
彼女の小さな拳が、俺の胸元にぽす、と弱々しく当たった。
「そんな風に真っ直ぐに来られたら……もう、無理だよ。我慢なんて、できないよ……」
泣きじゃくりながら崩れそうになる彼女の身体を、俺は今度こそ、逃がさないように両腕で強く、強く抱きしめる。
腕の中に収まった彼女の身体は、驚くほど小さくて、そして温かかった。
十年前、あの冬の廊下で『私の後輩になるのは大変かもね』と笑った彼女の轍をなぞり、俺は今、ようやく「先生と生徒」という十年目の境界線を完全に踏み越えた。
街灯の光が、泣きじゃくる彼女の髪を優しく照らしている。
東京の夜風が、俺たちの背中を祝福するように、あたたかく吹き抜けていった。




