第97話 太陽と十年目の境界
街灯の光を反射する夜の道で、松岡先生は前だけを見つめて歩いている。
どれほどの時間が流れただろうか。
やがて、彼女はゆっくりと立ち止まり、まるで目に見えない境界線を引きちぎるような力を込めて、自分の両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「……ダメだよ、高橋くん」
掠れた声が、夜の空気に消えていく。
さっきまで俺の手のひらに残っていたはずの温もりが、急速に夜風に奪われていくような気がした。
「先生……?」
「ダメ。……そんなこと、言っちゃダメだよ」
松岡先生は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、拒むように首を横に振った。
その瞳には、俺への拒絶ではなく、自分自身を激しく律するような、痛々しいほどの葛藤が浮かんでいた。
「私、あなたの八歳も上なんだよ? もうとっくに三十も過ぎてる、ただのおばさんなんだよ……?」
「そんなの、俺は――」
「それに、あなたは私の『教え子』なんだよ……?」
絞り出すような彼女の言葉に、俺の息が止まる。
「十五歳の、あの幼くて一生懸命だった高橋くんを、私は特等席で見守ってきたの。包装紙に包まれた大切な思い出みたいな男の子。なのに……そんな子が、新卒で入ってきたからって、年の離れた元・担任の先輩教師を捕まえたなんて噂にでもなったら、世間体だってあるし、周りからなんて言われるか……。あなたのこれからの大事な教師人生に、私が傷をつけるわけにいかないの」
きゅっと唇を結び、視線を地面に落とす彼女。
脇に抱えていた、あの金魚の栞のファイルをぎゅっと胸元で抱きしめる指先が、白くなるほど強張っている。
彼女が俺を拒む理由。
それは、俺を男として意識していないからではなかった。
むしろ、一人の男として、何より大切だった「教え子」の未来を想うからこそ、「元・教師」としての最後の理性が、彼女に固くブレーキをかけさせているのだ。
「私はずっと、あなたの『先生』のままでいなきゃいけないの。あの日、不格好な指切りをして、全国へ送り出した時のままで……。だから、もうこれ以上は……」
そう言って、彼女はきゅっと唇を噛み締め、視線を地面に落とした。
冷たい夜風が、静まり返った並木道をすり抜け、俺たちの間を虚しく吹き抜けていった。




