第96話 太陽と反則な態度
鉄板ハンバーグの店を出ると、夜の街はしっとりとした深い藍色に包まれていた。
駅へと向かう道すがら、俺たちは大通りの喧騒から少し外れた、静かな街路樹の並木道を並んで歩いていた。
街灯が落とすわずかな木陰が、あの日、県大会の会場の片隅で座り込んだあの場所を、どうしても俺に思い出させる。
隣を歩く松岡先生は、さっきの俺の言葉にまだ少し照れているのか、いつもより少しだけ距離を置いて、あの金魚の栞が挟まったファイルを大切そうに抱きしめていた。
「……ねえ、高橋先生。本当に、今日のお店、美味しかったね」
彼女は沈黙を紛らわせるように、少しだけ声を弾ませて言った。
けれど、その瞳はどこか泳いでいて、俺をまともに見ようとしない。
「先生」
俺は足を止めた。
つられて立ち止まり、不思議そうに振り返った彼女の正面に立ち、まっすぐにその瞳を見つめる。
「……十年前の、あの県大会の日のこと、覚えてますか?」
不意の質問に、松岡先生は少し面食らったように目を丸くした。
「え……? うん、もちろん覚えてるよ。高橋くん、予選のあと、木陰で一人で落ち込んでたでしょ?」
「そうです。コンマ数秒が縮まらなくて、自信を失くして、膝に顔を伏せてました。……そんな俺を見つけて、冷えたゼリーを差し出して、行楽地にでも行くみたいに、大阪の美味しいものの話をしてくれたのが、先生でした」
俺が一歩、距離を縮める。
夜風が街路樹の葉を揺らし、彼女の抱えるファイルの端から、あの金魚の栞が小さく覗いて揺れた。
「『もし全国決めたら、私、美味しいものおごっちゃう』って、いたずらっぽく笑って、小指を差し出してくれましたよね。あの日、あの重圧のなかで、先生と交わした不格好な指切りがあったから、俺は一番自由な気持ちで、あのゴールへ向かって泳げたんです」
「高橋先生……」
「あの時、一瞬だけ触れた先生の小指は、自分の手よりもずっと温かかった。……でも、十五歳の俺には、その温かさの理由を言葉にする勇気がなかった。この夏が終わる頃には、胸を張って隣に立てる男になるって、あの大阪の夜にそう誓うのが精一杯だったんです」
俺は、今度こそ逃げないように、彼女の前に右手を差し出した。
小指ではなく、大きな、大人の男の手を。
「十年かかりました。高校を卒業したあの夜、夜の校舎で先生にふられてから、俺は一日だってあなたのことを忘れた日はありません。あなたと同じ教師になって、同じ舞台に立って、今度こそ一人の男として認めさせるために、俺はここに立っています」
松岡先生は息を呑み、潤んだ瞳で俺の手を見つめた。
長い、長い十年という歳月。
その間、ずっとお互いの真ん中にあり続けた想いが、今、この静かな夜道に溢れ出そうとしていた。
「もう、綺麗にふられて泣きながら走り去るだけの子供じゃないです。誰のものにもさせない」
一呼吸置き、さらに深く、彼女の視線を射抜く。
「……俺は、あの夜からずっと、今でもあなたが好きです。松岡先生――いえ、沙織さん。これからは、あなたの隣にいさせてください」
そう告げて、俺は彼女の小さな手を、今度は小指ではなく、手のひらごと優しく、けれど二度と離さないように力強く包み込んだ。
一瞬だけ驚いたように、松岡先生の肩が小さく跳ね上がる。
手のひらから伝わる彼女の体温は、あの日、木陰で触れたあの指先と同じように、驚くほど温かかった。
差し込む街灯の光の中で、彼女の瞳から、堪えきれなくなった一粒の涙が、ゆっくりと頬を伝ってこぼれ落ちていく。
あの日、木陰で笑った彼女と、もう一度笑うために。
俺は彼女の手を握ったまま、ただまっすぐに、その次の言葉を待っていた。




