第95話 太陽と反則な言葉
そう言って寄せ書きを渡してきた生徒たちの顔には、いつの間にか涙を拭った後の一条の光と、全力を出し切った者だけが持つ、晴れ晴れとした満足げな笑みが浮かんでいた。
就任一年目。
手を焼いてばかりだった彼らと一緒にここまで来られて、本当に良かった。
改札口へ消えていく彼らの背中を見送り、駅の雑踏の中に二人きりで取り残される。
「……終わっちゃったね、みんなの夏」
隣に立つ松岡先生が、少し寂しそうに、でも誇らしげに呟いた。
その腕には、あの金魚の栞が挟まれたファイルが大切そうに抱えられている。
「そうですね。……さて、先生。俺たちの約束、まだ残ってますよね」
「え……?」
「勝ったらもっといい店予約するって言いましたけど、俺のなかではあいつら大優勝なんで。祝勝会、付き合ってください」
あの日のプールサイドでの約束を真っ直ぐに告げると、松岡先生は少しドギマギした表情で視線を泳がせ、それから小さく頷いた。
「……うん。行こう、高橋先生。私、お腹ペコペコだよ」
駅の雑踏を抜け、案内したのは落ち着いた佇まいの老舗鉄板ハンバーグ店だった。
案内された席に座り、目の前でじゅう、と肉の焼ける音と香ばしいソースの匂いが立ち上った瞬間、俺の脳裏にあの日が鮮烈に蘇る。
(あの十年前の、五月の放課後の調理室と同じ匂いだ……)
テスト前、エプロン姿の彼女に「試食して」と差し出された、不格好な手作りハンバーグ。
『高橋くんがその夢を叶えられるように、陰ながら応援させてね』
プールを見つめながらそう言ってくれた彼女の優しい声が、十五歳の俺を全国の舞台へと突き動かしたんだ。
「……高橋先生? どうしたの、じっと鉄板見つめて」
松岡先生の声に、俺はハッと我に返った。
目の前には、特製ソースがじゅわじゅわと音を立てている最高級のハンバーグ。
「……いえ。十年前のテスト前、調理室で先生が作ってくれた試作品を思い出してました」
「あ! あの時のハンバーグ?」
「そうです。あの時、先生が応援してくれたから、俺は全国まで走り抜けられました。……あの日から、俺の目標にはいつも先生がいたんです」
ナイフを置き、まっすぐに彼女を見つめる。
年の差や、元教師と教え子という壁。
彼女が必死に保とうとしている大人の理性を、もうはぐらかさせない。
松岡先生は顔をごく微かに上気させ、照れくさそうに微笑んだ。
「そんな大層なものじゃないよ。形だってちょっと不格好だったし……」
「形なんて関係ないですよ」
俺は熱い一口を口に運び、確信を込めて言葉を紡いだ。
「今こうして、こんな良い店で美味いハンバーグを食べてますけど。……やっぱり俺にとっては、あの五月に、調理室で先生が差し出してくれた、あの不格好なハンバーグに勝るものはないです。あれが、俺の人生で一番美味いハンバーグでした」
俺の直球すぎる言葉に、松岡先生は完全に息を呑んだ。
フォークを持ったままピタリと動きを止め、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていく。
ただの「可愛い教え子」や「年の離れた後輩」ではなく、一人の男としての熱い想いが、彼女が必死に築いていた心の防壁を完全に叩き割ったのが、手に取るように分かった。
胸の鼓動が跳ね上がっているのが、その潤んだ瞳から伝わってくる。
「……もう、高橋先生は本当に、反則ばっかり言うんだから……」
彼女は泣きそうなほど照れた顔で俯き、抱きしめるように自分のバッグをそっと触った。
あの日、ただ背中を押されるだけだった少年は、もういない。
俺は心の中で、いよいよこの後に待つ「最後の言葉」に向けて、静かに、深く呼吸を整えていた。




