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第93話 太陽と攻めだした一歩

 梅雨が明け、本格的な夏が始まった。


 終業式を終えた学校は静まり返っているが、容赦ない太陽が照りつける屋外プールだけは、生徒たちの歓声と激しい水しぶきで、文字通り熱く沸き立っている。


 「――よし、今のサークル綺麗に回れてるぞ! ラスト一本、しっかり追い込め!」


 プールサイドに立ち、ストップウォッチを片手に声を張り上げる。


 水面を蹴る力強いキックの音が、夏の青空に響き渡る。


 4月に赴任してからの、この3ヶ月ちょっとの間。


 泥臭く生徒たちとぶつかり合い、プールサイドで共に汗を流してきた時間が、確実に彼らの意識を変えていた。


 練習中、部員たちがプールから上がってくると、俺の周りは瞬く間に中学生たちで埋め尽くされた。


 フォームのチェックやリレーの引き継ぎのタイミングなど、口々にアドバイスを求めてくる彼らに的確な指示を出していく。


 ――そして、激しかった練習が終わり、生徒たちが全員下校した後のプールサイド。


 静まり返った空間に、波ひとつない水面が夕日を浴びてキラキラと輝いている。


 俺が一人でプールの塩素を入れる作業をしていると、足音が近づき、聞き慣れた柔らかい声が降ってきた。


 「高橋先生、本当に大人気だね」


 振り返ると、女子更衣室の戸締まりのチェックを終えた松岡先生が、スポーツドリンクのボトルを片手にこちらを見つめていた。


その瞳は、驚きと、どこか深い感慨に揺れている。


 「松岡先生。いや、人気っていうか、みんなが急にやる気になりすぎちゃって、俺の方が圧倒されてるだけですよ」


 「ううん、そんなことないよ。だって、春先はあんなにバラバラだった男の子たちが、今はみんな、高橋先生の一挙手一投足を見逃さないように必死だもん。赴任してまだ3ヶ月ちょっとで、ここまで子供たちの心を掴んじゃうなんて……正直、びっくりしちゃった。すごいなぁ」


 松岡先生はしみじみとした口調でそう言うと、眩しそうに俺を見上げた。


 「高橋くんがみんなを引っ張る姿は中学の時から見てるけど……今は『生徒』としてじゃなく、一人の『指導者』としてこれだけ信頼されてるんだもんね。なんだか新鮮で、本当に頼もしいな」


 彼女の言葉に、胸の奥が確かな誇りで満たされていく。


 「……俺が教わった先生が、最高の指導者でしたから。その背中を真似してるだけです」


 あの日、彼女が独身だと知って以来、俺はもう、自分の気持ちに嘘をつくような一歩引いた態度はやめていた。


 まっすぐに彼女の瞳を見つめてそう告げると、松岡先生はハッとしたように肩を揺らした。


 「えっ……あ、うん。そうだね……」


 松岡先生はあからさまに狼狽え、きゅっとファイルを抱きしめて視線を泳がせた。


 あの夜、俺から「十年越しの約束」を突きつけられて以来、彼女の様子は明らかに変わっていた。


 ただの「可愛い教え子」や「頼れる後輩」としてではなく、今、目の前にいる俺を、一人の「男」として意識して、戸惑っているのが伝わってくる。


 「……何、そんなに緊張してるんですか?」


 俺が少し距離を縮めて覗き込むと、彼女はすぐに視線を逸らしたが、その耳たぶがわずかに赤くなっていくのが見えた。


 「き、緊張なんてしてないよ。ちょっと眩しいだけ。……もう、高橋先生、最近なんかからかうようなことばっかり言うんだから」


 大人の、そして先輩としての理性を保とうと必死に声を整える彼女の横顔が、たまらなく愛おしかった。


 十年前、このプールサイドで彼女の視線を追いかけていた俺は、今、確実に彼女の心を揺さぶっている。


 「からかってないですよ。本気です」


 俺が少し声を落として言うと、彼女は一瞬だけ驚いたように俺を見上げ、それから小さく息を呑んで、また慌ててプールに目を戻した。


 抱きしめたファイルを持つ指先に、少しだけ力が入っているのが見える。


 「……もう、そういうのはズルい。……さ、これから目標の全国まで、しっかり指揮官として引っ張ってもらわないと困るんだからね」


 年の差と立場を盾にして、精一杯の先輩風を吹かせようとする彼女の照れ隠しが、嬉しかった。


 肺の奥に灯る青い炎が、さらに激しく、熱く燃え上がるのを感じる。


 「わかりました。……その代わり、シーズンが終わったら、また俺の飯に付き合ってくださいね。――今度はもんじゃじゃなくて、もっといい店、予約しますから」


 「あ、また言った。本当に、生意気な後輩……」


 そう言って、困ったように小さく苦笑する彼女と、真夏の光の中で視線を交わす。


 十年前、あの舞台の向こう側で待ち続けていた、もっと確かな「何か」。


 俺は今、その答えを完全にこの手で手繰り寄せながら、ギラギラと輝く太陽の下、もう一度プールサイドを力強く踏みしめた。

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