第92話 太陽と忘れた約束
店内の通路から、「お待たせー」とバッグを肩にかけた松岡先生が戻ってきた。
席についたその顔には、さっき見せた微かな動揺はもう綺麗に消え去っていて、いつもの頼れる先輩の笑顔に戻っている。
俺は深く吸い込んだ息を吐き出し、わざと小さく肩をすくめてみせた。
「お互い、年取りましたね……」
「ちょっと、何よ急に! 私はともかく、高橋先生はこれからでしょ!」
先生はぷっと吹き出して、それ以上はさっきの話題に触れようとはしなかった。お互いに、その話にはもう触れない。
もんじゃをつつきながら、他愛のない学校の話や次の学期の予定をひとしきり話し合い、お互いのグラスが空になった頃、宴は自然とお開きの空気になった。
「よし、じゃあそろそろ行こっか」
松岡先生がバッグを手に取るのを見て、俺はタイミングを見計らって席を立った。
「あ、先生、俺ちょっとお手洗い行ってきます。ちょっと待っててくださいね」
「はーい、ゆっくりでいいよ」
そう言ってスマホに目を落とした松岡先生の隙を突き、俺はテーブルの端にあった伝票を指先でこっそりと抜き取った。
そのままレジへと直行し、財布からカードを取り出してスマートに会計を済ませる。
カチリと端末の処理音が響くのを聞きながら、俺は胸の奥で、十年前のあの放課後の調理室を思い出していた。
何食わぬ顔でボックス席に戻ると、松岡先生はすでに上着を羽織って立ち上がる準備をしていた。
「お待たせしました。さ、行きましょうか」
「うん。じゃあ、お会計しよっか。ええと、伝票は……」
松岡先生がテーブルの上をパタパタと見回し、それから自分のバッグの中を覗き込む。
「あれ……? おかしいな、伝票がない。高橋先生、そこに落ちてたりしない?」
「ああ、それなら」
キョロキョロと首を傾げる彼女の前に進み出て、俺はいつも通りの同僚としての、だけど少しだけ男の余裕を込めた苦笑いを向けてみせた。
「もう、済ませましたよ」
俺がレジの方を親指で指し示すと、松岡先生は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
中学の合格報告の時と、まったく同じ顔だ。
「ええっ!? 何で!? いつ持ってったのよ! 私が奢るって言ったじゃない、先輩を立てなさいよー!」
自分が「お手洗い」の隙に綺麗に出し抜かれたのだと気づき、本気で悔しそうに口を尖らせる彼女に、俺は一歩歩み寄った。
「何言ってるんですか。昔、約束しましたよ」
「……約束?」
「俺がいつか働いて、給料が出るようになったら、お祝いの飯を奢るって。……十年越しになっちゃいましたけど、ようやくレディをエスコートする甲斐性くらいは持てました」
あの春、彼女が嬉々として金魚の栞が挟まったファイルにメモした、あの生意気な中学生のセリフ。
それを告げた瞬間、松岡先生の動きがピタッ、と止まった。
彼女はハッと目を見開いたまま、俺の顔をじっと見上げる。
狭い店内の、少し落とされた照明の下。かつて見下ろしていたはずの教え子が、今や自分よりもずっと高い目線から、悪戯っぽく、けれどどこか熱い視線をまっすぐに注いでいる。
「……あ」
松岡先生の頬が、お酒のせいだけではない鮮やかな赤さに染まっていく。
だが、彼女はすぐにハッとしたように小さく頭を振ると、自分の胸元にそっと手を当てた。
大人の男の顔になった俺の不意打ちに、一瞬だけ跳ね上がってしまった心臓の鼓動を、必死に落ち着かせるように。
きゅっと唇を結んだ彼女は、あえていつもの「からかうような先輩の顔」を無理やり作り直すと、わざとらしく小首を傾げてみせた。
「……何のこと? 先生、忘れちゃったなぁ。でも、そんな生意気な口を利くようになっちゃって。すっかり大人ぶっちゃってさ」
とぼける言葉とは裏腹に、その声はどこか微かに震えていて、視線はわずかに泳いでいる。
強がって「先輩」としてのブレーキをかけようとすればするほど、彼女のなかで、目の前にいる俺の存在が別の意味を持ち始めているのが、その狼狽から伝わってきた。
「忘れるわけないでしょう」
店を出ると、夜の街は深い藍色に包まれていた。
駅までの道のり、街灯の下を二人で並んで歩く。時折、隣を歩く先生の肩が、俺の腕に触れそうになる。
そのたびに、先生がほんの少しだけ、意識的に距離を取るのが分かった。
彼女が必死に維持しようとしている、元教師としての、そして先輩としての境界線。
だけど、他の誰のものでもない。
その事実が分かった今、底冷えするような絶望はもうない。彼女がどれだけブレーキをかけようとも、この距離感の意味はさっきまでとは全く違うものに変わっていた。
十五歳の春、彼女の過去を追いかけるために一歩を踏み出した俺は、今、ようやく彼女の現在の隣に並び、その境界線の目の前に立っている。




