第91話 太陽と溶けていく心
一学期の終業式を無事に終え、張り詰めていた校内の空気が一気に弛緩した日の夜。
駅前の居酒屋で開かれた教職員の一学期打ち上げ一次会は、大変な盛り上がりのうちに幕を閉じた。
お開きとなり、教員たちが次々とタクシーや改札へと消えていく中、俺と松岡先生はなんとなくその場に残り、駅の喧騒から少し外れた路地裏を歩いていた。
お互い、いつもより少しだけお酒が回っていて、足元がほんのりと軽い。
「ねぇ、高橋先生。私、まだちょっと喋り足りないかも。……二次会、行っちゃう?」
松岡先生が、少し赤くなった頬を緩めて、悪戯っぽく笑う。
その瞳は、職員室での先輩教師の顔ではなく、どこかあの頃の無邪気さを湛えていた。
「いいですね。じゃあ、あそこ入りましょうか」
たどり着いたのは、年季の入った赤提灯が下がる小さなもんじゃ焼き屋だった。
暖簾をくぐり、鉄板から立ち上る香ばしい匂いに包まれた瞬間、ふっと懐かしい記憶が呼び覚まされる。
(――あの夏の、大阪の夜と同じ匂いだ)
十年の時を経て場所が東京の路地裏に変わっても、目の前の鉄板を挟んでこの人と向かい合う空気だけは、驚くほどあの頃のままだった。
「高橋先生、今日は私がおごるからね。一学期、本当にお疲れ様」
狭いボックス席に向かい合わせに座ると、松岡先生はメニューを見ながらそう言った。
注文を済ませると、目の前の大きな鉄板に、細かく刻まれた具材と出汁が勢いよく流し込まれる。
ジュウという小気味いい音が、一ヶ月前のあの放課後、教室で生徒からまっすぐな想いをぶつけられた時に少し強張っていた俺の心を、じんわりと解きほぐしていくようだった。
「……松岡先生、一学期は色々とありがとうございました」
小さなコテでもんじゃを突つきながら、俺は視線を落としたまま言った。
「なにが?」
「修学旅行の時もそうですけど。俺、本当は空回りして、頼りない同僚だって思われるのが一番怖かったんです」
松岡先生の手が止まる。
薄い湯気の向こう側で、彼女は少しだけ真面目な顔をして俺を見つめた。
「そんなわけないでしょ。高橋先生が毎日、誰よりも早く体育館やプールに行って準備してたこと。生徒のことで悩んで、放課後の職員室で一人で指導案を見直してたこと。……私、全部知ってるよ。その積み重ねがあったから、今の中3のみんなは高橋先生のことが大好きなんだよ。だから、すっごく格好いい先生だよ」
胸の奥が、熱々のもんじゃとは別の熱さで満たされていく。
あの夏、「勝つことだけがかっこいいんじゃない」と俺のすべてを肯定してくれた彼女の優しさは、今もこうして、教員としての俺の背中を静かに支えてくれている。
焦げ目のついた熱い一口を口に運ぶ。
少し鼻に抜ける青のりの香りを味わいながら、俺はグラスを置き、まっすぐに彼女の目を見つめた。
「松岡先生」
「ん? なあに?」
「……旦那さんって、どんな人なんですか?」
思い切って投げかけた問いに、松岡先生はサワーを口に含んだまま、きょとんと目を丸くした。
だが、彼女はそれをコクンと飲み込んだ直後、あからさまに視線を泳がせ、その笑顔を微かに強張らせた。
「え……? 旦那さん、って……誰のこと?」
「え……いや、だって、成人式のときの同窓会で、先生が結婚したって噂を聞いて……」
二十歳のあの日、地元のやつらとの会話の中で不意に耳に飛び込んできた、その言葉。
もう自分は届かない世界の大人の男に、あの太陽を奪われてしまったんだと、あのときは本当に絶望して、しばらく使い物にならないくらい引きずった。
だからこそ、ずっとその言葉を事実だと信じ込み、胸の奥に蓋をしてきたのだ。
俺が困惑していると、松岡先生は自嘲するような、どこか寂しげな苦笑いを唇の端に浮かべた。
「何それ……どこでそんな話が出回ってたんだろ。私、結婚なんてしてないよ。そもそも、ここ数年彼氏すらおろか、ずっと独身だしね」
「…………え?」
頭を重いハンマーで殴られたような衝撃が走った。
「もう、変なこと言わないでよ……あ、ごめん、ちょっとお手洗い。席外すね」
松岡先生はそれ以上語るのを拒むように、手元のグラスを置くと、どこか逃げるような足取りで通路の奥へと歩いていってしまった。
一人残されたボックス席で、俺は完全にフリーズしていた。
結婚してない。
誰の苗字も背負っていない。
彼女は今も、あの頃と同じ「松岡先生」のままだ。
成人式の夜からずっと、俺の心を縛り付けていた、あの絶望的な呪いは何だったんだ。
呆然とする頭のなかで、先ほどの彼女の動揺がリフレインする。
あの噂はデマなんかじゃなかった。結婚目前で、直前に破綻したんだ。
だからここ数年、ずっと独身でいた。
いつも俺たちの前で明るく笑っていたあの人が、誰も知らないところでどれほど傷つき、一人で乗り越えてきたのか。
胸の奥で、十年間完全に凍りついていた何かが、凄まじい勢いで溶け出していくのが分かった。
鉄板の上で微かに弾けるもんじゃの音が、信じられないほどの熱量で俺の心臓を叩き始めた。




