第90話 太陽といつかの残響
六月下旬。
期末テストを翌週に控え、放課後の校舎はいつもより少し張り詰めた空気に包まれていた。
テスト一週間前からは部活動も休みになるため、生徒たちは一斉に下校する。
しかし、提出されたワークの採点を職員室で進めていた俺のもとに、クラスの女子生徒が二人、ワークを抱えてやってきた。
「高橋先生、すみません。ここの問題、どうしても解き方が分からなくて……放課後、ちょっとだけ教えてもらえませんか?」
「ん? いいよ。職員室の前だと何だし、教室に行こうか」
誰もいない教室の教壇にワークを広げ、俺は二人の生徒にペンを走らせながら丁寧に解説を付け加えていく。
熱心に頷く彼女たちの姿を見つめながら、俺は教師としての心地よい責任感を覚えていた。
「――よし、これで解けるはずだ。テスト、がんばって」
「はい! ありがとうございました!」
キリのいいところで解説を終えると、二人のうちの一人が、少しそわそわとした様子で隣のめがねをかけた友達の袖を引っぱった。
「あの、先生。……私、先生にちょっとだけ残って話したいことがあって」
「え?」
友達の女子生徒は「じゃあ、私、下で待ってるね!」と察したように微笑み、足早に教室を飛び出していった。
夕方の教室に、俺とその生徒の二人だけが取り残される。
窓の外から差し込む茜色の光が、机の並ぶ床に長い影を落としていた。
彼女は胸の前でぎゅっと拳を握り締め、顔を真っ赤にしながら、だけど逸らさずに俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「高橋先生。私……先生のことが、好きです。優しくて、いつも私たちのことを一番に考えてくれる先生のことが、ずっと好きでした。付き合ってください!」
夕暮れの教室に、彼女の真っ直ぐな言葉が響き渡る。
その瞬間、俺の脳裏に激しいフラッシュバックが起きた。
夜の母校、冷たい空気、高校の制服。
『一人の男として、松岡先生がずっと好きでした。付き合ってください』
必死に声を振り絞っていた、あの夜の、十八歳の自分の姿が。
今の俺は、あの時の松岡先生と同じ「教師」だ。
俺はそれまでの柔らかな笑みを消し、すっと姿勢を正した。
環境も、立場も、あの夜と全く同じ。
そして、自分の口から出てきた最初の言葉も、あの夜、大人の優しさで俺を完璧に突き放した、あの人の声と全く同じトーンだった。
「……伝えてくれて、本当にありがとう。必死に想いを言葉にしてくれたこと、すごく嬉しい。でもね」
俺は一度言葉を区切って、生徒の目を真っ直ぐに見つめた。
「それはできないよ。ごめんね」
一分の隙もない、綺麗すぎる拒絶。
彼女の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「俺は、君の担任だから。君がこの学校を卒業して、もっと広い世界に出ていくその日まで、ちゃんと前を歩いて引っ張っていきたい。だから、君のその真っ直ぐな気持ちには、応えられない」
教師としての義務ではなく、一人の大人として「君たちの未来を引っ張っていきたい」という、俺自身の強い願い。
「でもね、そうやって自分の気持ちを一生懸命に伝えられるところ、本当に格好いいと思う。いつか君がもっと大人になって、本当に大切な人と出会った時、その強さは絶対に君の力になるから。……先生は、君のこれからをずっと応援してる」
あたたかい、だけど明確に線を引く決別の言葉。
彼女はポロポロと涙を流しながらも、「……ありがとうございました!」と小さな声で頭を下げ、ワークを抱えて教室を走り去っていった。
一人残された教室で、俺は小さく息を吐き出し、ぽつりと呟いた。
「……完敗だな、俺も」
まさか自分が、あの時の松岡先生と同じ言葉で生徒を振ることになるなんて。
あの残酷なまでの綺麗すぎる拒絶が、どれほど教師としての責任と、生徒への誠実さに満ちていたものだったのか、今なら痛いほどよく分かる。
荷物をまとめて職員室へ戻ろうと、教室の前の扉を開けた、その瞬間だった。
「あ……」
廊下の影に、回覧用のファイルを手にした松岡先生が、呆然とした様子で立ち尽くしていた。
目が合う。
今のやり取りを、最初から全部――聞かれていた。
廊下に落ちる夕闇のなかで、松岡先生の手にあるファイルが微かに震えている。
俺が、あの夜の彼女と「全く同じ言葉」で生徒を諭し始めたこと。
あるいは、あの日の拒絶を自分の中で噛み砕き、消化して、自分の言葉で生徒を導く立派な教師になったこと。
それが、大人の教え子となった今の俺の背中から、嫌というほど伝わってしまったかのように。
「松岡先生……」
俺が声をかけると、松岡先生はハッとしたように視線を泳がせた。
一瞬、明らかな動揺がその瞳を走ったけれど、先生はすぐにいつもの先輩教師としての顔を作り、小さく肩をすくめてみせた。
「す、すごいね、モテモテだね……」
声がわずかに上擦っているのを隠すように、先生はパタパタと手元のファイルで自分を仰ぐ。
「若いっていいなぁ。あ、私、次の会議の資料配ってこなきゃいけないから、じゃあね!」
それだけを一気にまくしたてると、松岡先生は俺の返事を待たずに、くるりと背を向けて足早に廊下の向こうへ去っていった。
静まり返った廊下に、松岡先生の急ぎ足の足音だけが虚しく響く。
窓の外を見上げると、梅雨時のどんよりとした空に、一番星が皮肉なほど静かに光り始めていた。
あの日から十年。
俺があなたと同じ教壇に立つ男になっても、あの夜の残響は、まだ二人の間を冷たく揺らし続けている。




