第89話 太陽と復路の特急
二泊三日の修学旅行が終わり、京都駅のホームは、お土産袋を両手に抱えた生徒たちの熱気と、どこか名残惜しそうなざわめきに包まれていた。
東京へと向かう新幹線の乗車口。
生徒たちの点呼をそつなく終え、大きなバッグを肩にかけ直して車内へと足を踏み入れる。
隣の席の松岡先生は、三日間の長旅で疲れ果てているはずなのに、どこかやり切ったような晴れやかな顔をしていた。
指定された並びの席に、二人で腰を下ろす。
新幹線が静かに滑り出し、窓の外の景色がまたたく間に流れ去っていく。
最初の三十分ほどは、東京駅に着いてからの解散手順の手直しや、明日からの通常授業の連絡事項を相談していた。
けれど、ホッとした安心感と冷房の効いた車内の心地よさ、自由席の生徒たちの様子をたまに見回る緊張感。
そして揺れの一定のリズムが、急激に俺の意識を奪っていった。
連日の夜間見回りで、自分が思っている以上に体力が限界だったらしい。
「……ん」
ハッと目を覚ました時、車内には「まもなく東京です」というアナウンスが小さく流れていた。
やってしまった。
生徒を引率する立場の教師でありながら、完全に熟睡してしまっていた。
慌てて姿勢を正し、隣を見る。
体は少しも触れていなかったけれど、松岡先生はちっとも眠った様子はなく、文庫本を片手にこちらを見て、悪戯っぽく微笑んでいた。
「あ、高橋先生、起きた? 本当によく眠っていたね」
「す、すみません……! 俺、乗車口であれだけ偉そうなことを言っておきながら……」
顔がカッと熱くなる。
情けなくて頭を掻く俺を見て、松岡先生はクスクスと声を立てて笑った。
「ううん、いいのいいの。昨日も夜遅くまで、生徒たちの体調チェックのファイルを一人で見直してくれてたでしょ? 本当にお疲れ様」
先生のトートバッグの隙間からは、さっき清水坂で見せてもらった、あの薄黄色の『金魚の栞』がひょこっと顔を出している。
先生は優しく目を細めると、窓の外に流れる東京のビル群を見つめながら、ぽつりと言った。
「なんだか、十年前と逆だね」
その言葉に、胸の奥がどくん、と大きく跳ね上がった。
「え……」
「あの夏の全国大会の新幹線。あの時は私がぐっすり寝ちゃって、高橋くんの肩を借りちゃった気がするなぁって。ふと思い出しちゃった」
まさか。
あの夏の、自分にとっては人生のすべてを懸けるほど大切にしまっていたあの時間を、先生もずっと――覚えていて、くれたんだ。
あの頃の俺は、隣にいる彼女の体温を近くに感じるだけで頭が真っ白になり、窓ガラスに映る赤くなった顔を必死に隠そうとしていた。
だけど、教師として隣に並べるようになった今、あの頃のような初々しい動揺はもう見せない。
ただ、驚きと、それ以上の愛おしさが胸にじんわりと広がっていく。
「……あの時は、先生が寝過ぎだったんですよ」
俺は照れ隠しに小さく息を吐き出し、当時と同じ文句を少し生意気に返してみせた。
「あはは、そうだっけ? でも、あの時は高橋くんがすごく頼もしく見えたんだよ。……もちろん、今もね」
バッグの隙間から覗く金魚の栞が、俺の隠し通したはずの昔の恋心を、今も静かに小突いてくるような気がして、可笑しいやら切ないやらで胸が忙しくなる。
新幹線が速度を落とし、ゆっくりとホームへと滑り込んでいく。
あの夏のような、むせ返るほどの熱い季節はもう戻らない。
だけど、確かに地続きの思い出を共有しながら、俺たちはこれからも一緒に歩いていく。
俺は少し名残惜しさを感じながらも、頼もしい同僚としての顔に戻り、スッと立ち上がった。




