第88話 太陽としおりの中の栞
六月、京都。
梅雨入り前の湿った空気が、修学旅行生で賑わう清水坂にまとわりついていた。
あの日から十年。
俺はかつての自分たちと同じ、中学三年生の担任として、この場所に立っている。
生徒たちは班別行動で元気よく清水寺の階段を駆け上がっていき、その騒がしい背中を見送った後、俺たち教員は清水坂の途中にある本部の休憩所兼お土産処に落ち着いていた。
「はぁ、やっぱり京都の坂道は堪えるねぇ……」
隣で、松岡先生が湯呑みを両手で包みながら、ほうっと息を吐き出した。
長時間の見回りと慣れない人混みで少し疲れているのだろう。
ほんのり赤くなった頬と、相変わらずどこかほっとさせる雰囲気は、あの頃の家庭科室の彼女のままだ。
「松岡先生、お疲れ様です。お茶、お代わり入れますか?」
「あ、ありがとう高橋先生。本当に頼りになるなぁ」
先生が微笑む。
冗談めかして「高橋先生」と呼ばれるたび、嬉しいような、胸がチクリとするような不思議な感覚に陥る。
今の彼女は、もう他の人のものだから。
お茶を淹れに立ち上がり、ふと休憩所の脇にある小さなお土産コーナーに目をやった瞬間、俺の指先がピキッと止まった。
ちりめん細工の和雑貨が並ぶ棚。
そのレジの脇に、見覚えのあるものが吊るされていた。
――薄黄色の小さな金魚の刺繍が入った、ちりめんの「栞」。
ドクン、と胸の奥が跳ねる。
あの時、佐藤に下手な嘘をついて買った、あの栞と全く同じものだった。
『部室のノートにでも挟んどけばいいかと思って』
そんな格好のつかない言い訳をしながらも、修学旅行が終わった後、俺はちゃんと自分の手で松岡先生にあの栞を渡したんだ。
あの日の夜、旅館の布団の中で、ポケットの中の薄い感触を確かめながら自分の恋心を自覚した、あの痛いほどの動悸が、一瞬で脳裏に蘇ってくる。
「あ、それ……」
いつの間にか後ろに立っていた松岡先生が、俺の視線の先にある金魚の栞を見て、あっと声を上げた。
「懐かしいな。高橋くんが中3の修学旅行の時にくれたよね」
先生は嬉しそうに目を細めると、バッグから今回の引率用につくられた、予定表や名簿の詰まった厚い『修学旅行のしおり』を取り出した。
そのページをめくると、そこには少し端が擦り切れた、あの薄黄色の金魚の栞が、見返しのページに静かに挟まれていた。
「あの日、高橋くんからこれをもらった時、すごく嬉しかったんだよ。だから、今回の京都の引率にも、お守り代わりに持ってきちゃった。今でもこうして大切に使ってるの。もう十年も経つのに、物持ちいいでしょ?」
そう言って、あの頃と変わらない無邪気さで笑う先生。
先生は、ただの「初めての教え子からの贈り物」として、大切に使い続けてくれているだけだ。
その純粋な優しさが、今の俺にはひどく眩しくて、そして切なかった。
あの時、どんな想いでこれを手渡したのか、俺の小さな秘密も、隠し通した恋心も、先生は何も知らない。
「……そうでしたね」
俺は小さく息を吐き出し、大人としての穏やかな微笑みを顔に張り付けた。
「あの時は、金魚が水泳部っぽいからって適当に選んだだけだったんですけど。まだ使ってくれてるなんて、光栄です」
もう、あの日のように動揺して、慌てて視線を逸らしたりはしない。
プールサイドで冷たいコーラを頬に当てて、顔を冷やしていた少年は、もうここにはいない。
「ううん、私の宝物だよ。これを見るとね、あの頃みんなで一生懸命プールで頑張ってたこと思い出して、元気が出るの」
先生はそう言って、愛おしそうに修学旅行のしおりの上の、金魚の刺繍を指先でなぞった。
届かない想いだと、とっくに知っている。
だけど、京都の賑やかな雑踏の音を聞きながら、俺は心の中でそっと呟いていた。
(先生。俺が今ここに先生の同僚として立っているのも、全部、その小さな金魚のせいなんですよ)
六月の京都の風が、めくられたしおりのページを静かに揺らしていた。




