第87話 太陽と茜色の炭酸
部員たちが興奮冷めやらぬ様子で帰路につき、静まり返ったプールには、ただ寄せては返す小さな波の音だけが響いていた。
夕暮れのオレンジ色の光が、水面に反射してきらきらと揺れている。
俺はレーンロープを片付け終え、濡れたプールサイドに腰を下ろして、残った水分をタオルで拭き取っていた。
「高橋先生、はい。これ、お疲れ様」
のんびりとした、だけど少し弾んだ声と一緒に、目の前に差し出されたのは――缶コーヒーではなく、キンキンに冷えた赤い缶コーラだった。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
見上げると、松岡先生がジャージのポケットに手を入れ、悪戯っぽく微笑んでいた。
「先生……これ、」
「あはは、驚いた? 『アスリートは炭酸とか控えるんじゃないの?』って、昔私が言ったこと、覚えてるよ。でも高橋くん、頑張った日の後はいつも『コーラがいい』って言ってたから」
手渡されたコーラは、あの通学路の自販機の前で貰った時と同じように、驚くほど冷たかった。
あの頃は、先生の居眠りを内緒にする代わりに奢ってもらった、2人だけの『秘密の炭酸』。
まさか大人になって、もう一度先生からこの缶を受け取る日が来るなんて思わなかった。
「……ありがとうございます」
プルタブを引き、一気に喉へと流し込む。
強烈な炭酸の刺激と、懐かしい甘みが、あの夕暮れの通学路の記憶を鮮烈に呼び覚ました。
「本当にびっくりしちゃった」
松岡先生は俺の少し隣に腰を下ろすと、プールを見つめながらポツリと言った。
「まさか、あの高橋くんがインカレに出るくらい強くなって、しかも同じ中学校の教師になって、私の目の前であんな格好いい泳ぎを見せてくれるなんてね。……さっき部員たちに言ってくれた言葉、すごく嬉しかったよ。私、先生っていうより、また君に守られちゃったみたい」
「……松岡先生」
先生は嬉しそうに、だけどどこか眩しいものを見るように目を細めた。
夕日に照らされた先生の横顔は、あの頃と変わらず綺麗だった。
だけど、俺の胸には、彼女がすでに「誰かの奥さん」なのかもしれないという切ない現実が横たわっている。
あの自販機の前では、名前のつかない関係にただドギマギしていた。
だけど今は違う。届かない恋だと知っているからこそ、俺はもう、慌てて視線を逸らしたりはしない。
「俺、もうあの頃の、ただ守られてるだけの子供じゃないです」
俺は立ち上がり、コーラの缶を握りしめたまま、先生の目を真っ直ぐに見つめた。
「これからは同僚として、この水泳部を一緒に引っ張っていきます。先生の背中は、今度は俺が支えますから」
先生は一瞬、驚いたように目を見開いた。
だけどすぐに、あの頃のように優しく、そして一人の大人の男を頼りにするような、温かい微笑みを浮かべた。
「うん。よろしくね、高橋先生」
冷たい缶の感覚が、さっきから妙に熱を持っている自分の顔を冷やしてくれる。
あの頃とは違う、だけど確かに地続きの俺たちの関係が、このプールサイドからまた新しく始まっていく。




