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第86話 太陽と白泡のレーン

 放課後のプールサイドには、塩素の匂いと、どこか弛んだ空気が漂っていた。


「ちょっとみんな! もうすぐ市の中学総体なんだから、ちゃんとメニュー通りに泳いで!」


 レーンロープの端で、松岡先生がストップウォッチを片手に声を張り上げていた。


 だけど、プールの中にいる部員たちは「はーい」と気の抜けた返事をするだけで、コースの端でお喋りに興じている。


 この中学校の水泳部は、個々のポテンシャルは高いものの、とにかくやる気がないことで有名だった。


 優しすぎる松岡先生一人では、中学生の男の子たちをコントロールしきれずに困り果てているのが一目で分かった。


「松岡先生、お疲れ様です」


 職員室でジャージに着替え、プールに駆けつけた俺が声をかけると、先生はホッとしたように振り返った。


「あ、高橋先生! 良かった、来てくれて。みんな挨拶して。今年度から主顧問として入ってもらうことになった、高橋海先生よ」


 先生の言葉に、プールの中にいる部員たちが一斉にこちらを見た。


 エース格らしき男子部員が、俺の姿をジロジロと眺め、鼻で笑う。


「なんだ、新しい主顧問って新任の先生か。先生、水泳のこととか分かんの? 悪いけど、俺らこれでもJO(ジュニアオリンピック)の標準きるレベルなんで、素人に口出しされるのウザいんすよね」


 完全にナメられている。


 松岡先生が慌てて「こら、失礼でしょ!」と窘めようとしたが、それを手で制し、俺は一歩前へ出た。


「お前がこの部の一番か。種目は?」


「……100の自由形。一応、54秒台ですけど」


 中学生の54秒台は確かに速い。


 自分の才能に自惚れて、練習をサボるのもうなずける数字だ。


「いいタイムだ。じゃあ、勝負しよう」


「は?」


 俺はそう言いながら、着ていたジャージの上着のジッパーを引き下げ、一気に脱ぎ捨てた。驚く松岡先生と部員たちの前で、下に穿いていたハーフパンツも蹴り脱ぐ。


 現れたのは、大学のインカレまで戦い抜いた、圧倒的な大胸筋と逆三角形に引き締まった広背筋。


 そして、ガチの競泳用スパッツを穿いた本物のスイマーの肉体だった。


 プールサイドの空気が、その肉体を見た瞬間にピキッと凍りついた。


「50メートル一本。お前が勝ったら、これからの練習メニューは全部お前らの自由にしていい。口出しもしない。……だけど俺が勝ったら、四の五の言わずに俺のメニューに従ってもらう」


「……っ、上等だよ! 負けても後から先生だからって言い訳すんなよ!」


 プライドを刺激された男子部員が、三レーンのスタート台に飛び乗る。


 俺はその隣、四レーンのスタート台に立った。


 松岡先生が「ちょっと、二人とも……!」と困惑していたが、俺たちの本気の殺気に押され、震える手でストップウォッチを構えた。


「……Take your marks.」


 ――パァン!と、水面を捉える美しい破裂音が響いた。


 男子部員も悪くないスタートだった。


 だが、俺の飛び込みは、その遥か先を行っていた。


 インカレ出場の実力者が、現役を退いたとはいえ、中学生相手に手を抜くわけがない。


 無駄のない極限のストリームラインから、爆発的なバタフライキック。


 水面に浮き上がった瞬間には、すでに体半分以上の差をつけていた。


 圧倒的な推進力。


 水飛沫の高さも、ピッチの力強さも、部員たちの知るそれとは次元が違った。


 ただ一人の男の泳ぎによって、プールの水全体が大きくうねり、激しく波立つ。


「な……ッ!?」


 プールサイドで見守っていた他の部員たちから、言葉にならない絶叫に近い声が上がった。


 バチィン! と、俺の手のひらが先にゴールタッチの壁を叩く。


 数秒遅れて、男子部員が息を切らせてタッチした。


 水面から顔を上げ、濡れた髪をかき上げる。


 頭上の太陽が、プールサイドに立つ彼女の姿を眩しく照らしていた。


 男子部員は、信じられないものを見たという目で、呆然と松岡先生の時計を見つめていた。


 その差は、五十メートルとは思えないほど圧倒的だった。


「自由形百メートル。高校の時はインターハイ三位、大学ではインカレまで出た。……これが、お前らがさっきまでナメてた教師の泳ぎだ」


 プールサイドに上がった俺は、静まり返る部員たちを鋭い視線で見下ろした。


 さっきまでダラダラしていた奴らの目が、今は恐怖と、それを上回る圧倒的な「憧れ」の眼差しに変わっている。


「だけどな、勘違いするなよ」


 俺は濡れた髪をかき上げ、隣に立つ松岡先生を真っ直ぐに見つめた。


「俺が中学で全中に出て、高校でインハイ三位になれたのは、全部そこにいる松岡先生の指導のおかげだ。先生の教えを信じて、死ぬ気でついていったから、俺はここまで強くなれたんだよ」


 部員たちの視線が、一斉に松岡先生へと向く。


――正直、お前らが俺をナメるのはどうでもいい。


 だけど、俺の大切な恩師を、この人が一生懸命向き合ってきた水泳部を、お前らがナメることだけは絶対に許せなかった。


 もうフられてしまった相手だけど、俺にとっては今でも、誰よりも尊敬する特別な人なんだ。


「お前らの才能は本物だ。だけど、その程度の練習で満足してたら、一生上には行けない。……松岡先生のすごさを、俺が証明してやる。強くなりたい奴は、俺たちのメニューについてこい」


「……っ、お願いします!!」


 エースの男子部員が、頭を深く下げた。


 それに続くように、他の部員たちからも「お願いします!」と地鳴りのような声が響く。


 一瞬にして、この中学校水泳部の空気が、一つの確固たる目標に向かって引き締まった。


 俺はふぅと息を吐き、タオルの元へ歩きながら、隣で立ち尽くしている松岡先生を見た。


 先生は、ストップウォッチを握りしめたまま、微かに唇を震わせていた。


 あの頃、自分が赴任して最初に出会った、不器用で必死だった「最初の教え子」。


 その少年が、自分の知らない7年間で化け物のように強くなり、今や自分を真っ直ぐに守るために、圧倒的な「プロの指導者」として目の前に立っている。


 感動と、誇らしさと、そして一人の男としての眩しさに目を細める先生。


(どうですか、先生。俺、少しは頼れる男になれましたか――?)


 心の中でそう呟きながら、俺は濡れた身体のまま、あの頃と変わらない少し照れくさそうな、だけど誇らしい笑顔を先生に向かって返した。

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