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第85話 太陽と夜明け前

「――というわけでね、高橋先生。次の春から、別の学校へ異動してもらうことになった」


 三月の半ば、校長室に呼び出された俺は、机の上に置かれた内示の書類をじっと見つめていた。


 教師になって三年。


 テニス部の主顧問として、ようやく自分の指導が実を結び始めていた矢先の話だった。動揺が顔に出ていたのか、校長は眼鏡の奥の目を少しだけ和らげて言葉を続けた。


「君がテニス部を今まで上手に引っ張ってきた手腕、そして何より、インターハイ3位という水泳の実績を買われての引き抜きだ。次の赴任先には水泳部があるんだが……実はここ数年、指導者が不在でね。能力はあるが癖の強い生徒が多くて、少々荒れているらしい。君のような熱い体育教師に、ぜひ彼らを立て直してほしいんだ」


 水泳部。


 その響きが、俺の胸の奥で眠っていた熱い何かを、一瞬で呼び覚ました。


「……分かりました。喜んでお受けします」


 異動先は母校ではないけれど、またあのプールサイドに立てる。


 それだけで、俺の心には新しいガソリンが注がれたようだった。


 ――開けて、4月。


 桜が舞い散る中、俺は新しい赴任先の校門をくぐった。


 新任式を終え、慌ただしく鳴り響く電話や、先生方が行き交う熱気に満ちた新しい職員室。俺は自分のデスクに荷物を下ろし、隣の席になる教員の引き出しに貼られたネームプレートに目をやった。


『技術・家庭科(家庭分野)――』


 その後に続く文字を見た瞬間、俺の全身の血が凍りついた。


 松岡。


 ありふれた苗字だ。


 同姓の別人なんて、いくらでもいる。


 そう自分に言い聞かせようとした時、背後から、あの頃と全く変わらない、少しのんびりとした、だけど俺の人生を変えた懐かしい声が響いた。


「あ、高橋先生ですか? 隣の席になります、よろしくお願いします――」


 振り返ると、そこには、あの夜の校舎で俺を綺麗にフった「太陽」が立っていた。


 高校の卒業式以来、実に7年ぶりの再会だった。


 驚きで目を見開く彼女の左手の薬指を、俺の目は無意識に探していた。


 十年だ。


 俺はもう、あなたの庇護を必要とする頼りない生徒じゃない。


 大学を卒業し、現場で三年間揉まれ、部活の全責任を背負ってきた、一人の「同僚」だ。


「……ご無沙汰しています、松岡先生。今日から、よろしくお願いします」


 極めて事務的に、大人の男として挨拶を返した俺を、彼女はしばらく呆然と見つめていた。


 やがて、その大きな瞳にじわ、と涙に似た光を浮かべ、溢れ出る感情を隠せないように、小さく声を震わせた。


「――わぁ……また会えたね、高橋くん」


 周りの喧騒を置き去りにして、その声だけが鼓膜に溶ける。


 ゴトリ、と胸の奥で、十年間止まっていた時計の針が、狂おしいほどの音を立てて動き始めた。

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