第9話 太陽と約束の木陰
県大会の会場である屋内プールは、塩素の匂いと大歓声がこもった独特の熱気に包まれていた。
午前中の予選。
俺のタイムは、またしても全中標準記録に届かなかった。
(……あとコンマ三秒。どうして届かない)
喧騒から逃れるように、俺は一人で会場の外へ出た。
駐車場脇にある大きな木の下、わずかな木陰に座り込み、膝に顔を伏せる。
全身に重い疲労がまとわりつき、午後の決勝でそのコンマ数秒を縮められるイメージが、どうしても湧いてこなかった。
「……見つけた」
上から降ってきたのは、少し息を切らした、聞き慣れた声だった。
顔を上げると、そこには息を切らせて顔を上気させた松岡先生が立っていた。
手には、冷えた栄養ゼリーのパウチが握られている。
「はい、これ。……ちゃんとエネルギー補給しないと、最後まで持たないよ」
差し出されたゼリーを受け取ると、驚くほど冷たかった。
「……ありがとうございます。でも先生、決勝、自信ないです。予選であんなに必死に泳いで届かなかったのに、あと何を削ればいいのか分からなくて」
俺は、震える手でゼリーのキャップを開けた。
松岡先生は俺の隣、少しだけ距離を置いて芝生の上に腰を下ろした。
いつものように抱えたファイルの端からは、あの金魚の栞が少しだけ覗いている。
「ねえ、高橋くん。全国大会って、今年はどこであるんだっけ?」
不意の質問に、俺は少し面食らった。
「……今年は、大阪ですけど」
「大阪! いいなあ、本場のたこ焼きとかお好み焼きとか、美味しいものいっぱい食べられるじゃん!」
彼女はパアッと顔を輝かせて、まるで行楽地のことでも話すように身を乗り出した。
こっちは人生かかってるって時に、この人は……。
「先生、遊びに行くんじゃないんですよ」
「わかってるよ。でも、そんなに怖い顔して泳いでも楽しくないでしょ? ……よし、決めた! もし高橋くんが全国決めたら、私、美味しいものおごっちゃう。あ、でも私、新任で貧乏だから、お好み焼き一皿くらいで勘弁してね?」
彼女はいたずらっぽく笑って、小指を差し出してきた。
あまりに「先生らしくない」提案に、すっかり毒気を抜かれた俺は、思わず吹き出してしまった。
「……なんすか、それ。しかも、全国行くのにお好み焼き一枚だけって……」
「じゃあ、たこ焼きもつけるよ! トッピングも豪華にするから。……だからさ、美味しいもののことだけ考えて、リラックスして泳いできてよ。ね?」
差し出された小指と、その奥にある温かな瞳。
全国に行かなきゃいけないという「重圧」が、彼女への「約束」という、もっと前向きで熱いものに変わっていくのがわかった。
「……わかりました。約束ですよ。俺、絶対におごらせますから」
俺は彼女の小指に、自分の小指を絡めた。
一瞬だけ触れた彼女の指先は、自分の手よりもずっと温かかった。
「いってらっしゃい、高橋くん!」
屋内プールへ戻る俺の背中に、彼女の明るい声が響く。決勝のスタート台に立ったとき、不思議と体は軽かった。
一秒を削るんじゃない。あの木陰で笑った彼女と、もう一度笑うために。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピーーー――。
水中に飛び込んだ瞬間、世界は静寂に包まれた。光の差す方へ、彼女の待つゴールへ。
俺は、今までの人生で一番、自由な気持ちで水を掻いた。




