第8話 太陽と届かない一秒
七月上旬、地区大会当日。
屋外プールの周囲は、各校の部員たちの歓声と、アスファルトから照り返すような熱気に包まれていた。
俺の心臓は、アップを終えた後もずっと、速いビートを刻み続けている。
(……今日、ここでタイムを出さないと)
中学最後の夏。
全中へと続く道は、この地区大会、そして次の県大会での標準記録突破が絶対条件だ。
「高橋、緊張してんのか? お前なら余裕だろ」
佐藤が横で笑っているが、俺にはそれを笑い飛ばす余裕すらなかった。
召集所へ向かう途中、本部テントの脇に、一生懸命にストップウォッチを首から下げている松岡先生の姿を見つけた。
彼女の手元には、あの金魚の栞が挟まったファイルがしっかりと握られている。
「高橋くん!」
彼女が俺に気づき、小走りで駆け寄ってきた。
「いよいよだね。……あの、私、詳しいことは言えないけど。でも、高橋くんがどれだけ練習してきたか、ずっと近くで見てきたから」
彼女はそう言って、ファイルの端から覗く金魚の刺繍を、そっと指先でなぞった。
「これ、お守りにして応援してるね。……いってらっしゃい」
彼女の笑顔に、肺の奥に溜まっていた熱い空気が少しだけ抜けた気がした。
俺は小さく頷き、スタート台へと向かった。
――Take your marks
電子音の直後、飛び込みの衝撃とともに、世界からすべての音が消える。
水を掻く音と、自分の激しい拍動。ターンのたびに視界が激しく揺れる。
誰よりも速く。
一刻も早く、あの壁に触れるために。
結果は――一着だった。
電光掲示板の最上段に、俺の名前が載っている。
「やったな、高橋! 優勝だぞ!」
プールサイドで佐藤たちが拳を突き上げて歓声を上げている。
だが、俺は自分の名前の横にある「タイム」を見た瞬間、全身の指先が冷たくなるのを感じた。
全中標準記録まで、あとわずか。一秒にも満たない、けれど絶望的に遠いその数字が、網膜に焼き付いて離れない。
「……お疲れ様。すごかったね、優勝おめでとう!」
控え席に戻る廊下で待っていた松岡先生が、手放しで喜んで俺を迎えてくれた。
だが、俺は彼女の目を見ることができなかった。
優勝したというのに、敗北感だけで胸がいっぱいだった。
「……先生。俺、今のタイムじゃ全国に行けないんです」
絞り出すような声に、彼女の笑顔が少しだけ揺れた。
「優勝しても、意味ないんです。あの一秒を削れなきゃ、俺の三年間は……」
言葉が詰まった。情けない。先生の前でだけは、こんな顔は見せたくなかった。
松岡先生は、しばらく何も言わずに俺の隣に立っていた。やがて、彼女は、静かに口を開いた。
「……私には、その一秒がどれくらい重いものか、本当の意味では分からないかもしれない。でもね、高橋くん」
彼女の柔らかな声が、耳に届く。
「今日の君の泳ぎ、誰よりも綺麗だった。……まだ、次がある。県大会がある。そこで君が笑えるように、私、もっともっとサポートするから」
その言葉は、ただの気休めかもしれない。
でも、彼女がファイルを抱える腕に、俺が渡した栞が揺れているのが見えて、俺はかろうじてその場に踏みとどまることができた。
認めたくなかったはずの気持ちが、苦しさと混ざり合って胸を締め付ける。
全国へ行きたい。
そして、その場所で胸を張って、彼女に「ありがとうございました」と言いたい。
七月の強い日差しが、俺たちの影をコンクリートの床に色濃く落としていた。




